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穏やかな海

手記(オウム事件に関わった弁護士)

被害対策弁護団としての使命

宇都宮 健児

事件発生当時、私は東京弁護士会の副会長をしており、自宅から霞が関にあった旧東京弁護士会館に毎日通っていた。JRの総武線に乗って秋葉原まで行き、そこから地下鉄日比谷線に乗り換えて霞が関まで通うのが日課となっていた。  当日は、快晴で突き抜けるような青空だったのを覚えている。私の出勤時間は大体午前9時半頃だったので、自宅をいつも午前9時前に出ていた。  私は出勤前、自宅でテレビを見ていて事件を知った。当初は、地下鉄で爆発事故が起き、大勢の死傷者が出ていると報道していたと思う。築地駅の前でたくさんの負傷者がうずくまっている姿が放映され、これは大変だと思い、秋葉原から地下鉄には乗らないで、JR山手線に乗り換えて有楽町駅まで行き、弁護士会館に駆けつけたことを思い出す。私の出勤時間が1時間早ければ、私も地下鉄サリン事件に巻き込まれていたことになる。  時間が経過する中で、この事件がオウム真理教によって引き起こされ、サリンを使用した無差別テロ事件であったことがわかってきた。霞が関中枢を狙ったオウム真理教のテロ攻撃により、何ら罪のない人々が国の身代わりとなり、12人が死亡し、5500人以上の人が重軽傷を負った。  地下鉄サリン事件の被害者を救済するために、1995年8月、33人の弁護士が参加して地下鉄サリン事件被害対策弁護団が結成され、私が弁護団の団長となった。  1996年1月には、「地下鉄サリン事件被害者の会」が結成された。被害者の会は、地下鉄サリン事件で営団地下鉄の職員であった夫を亡くした高橋シズヱさんが中心となり、結成当初は、ほぼ1か月に1回位の集まりをもった。私も被害対策弁護団の弁護士らと一緒にほぼ毎回出席していた。大切な家族を亡くしたり、自ら受傷した被害者が、一人ひとり今の自分の気持ちや置かれている状況を泣きながら話し出すと、聞いているほかの被害者ももらい泣きをする。次の被害者が話し始めると、それを聞いてまたほかの被害者がもらい泣きをする。当初は、このような会合が毎回続いていたことを思い出す。被害者の会は、被害者にとっては最も心が癒やされ、励まされる場になったのではないかと思う。  被害対策弁護団は、被害者の会と力を合わせてオウム真理教の破産申立てを行い、破産管財人に選任された阿部三郎弁護士らと共に、被害者の救済活動を行ってきた。  オウム真理教破産事件に関連して、国に三つの法律を制定させ、阿部三郎弁護士を中心とする破産管財人グループが超人的な活動を行ってきたにもかかわらず、破産手続の中での被害者への配当はいまだ34.83%にとどまっている。破産手続による被害者救済は限界に達したと言える。  地下鉄サリン事件では、今でも重い後遺症に苦しんでいる被害者も多い。国は、破産手続の中で被害者が優先的な配当を受けられるようにした三つの法律を制定させたほかは、これまでなんらの被害者救済措置も講じてこなかった。  被害対策弁護団としては、今後は被害者の会や阿部三郎破産管財人らと力を合わせて、オウム神理教のテロ事件によって被害を受けた被害者の補償を国に行わせるための特別法の早期制定を求める運動に、全力を挙げて取り組んでいきたいと思う。 ◆筆者プロフィール  1971年弁護士登録、東京弁護士会所属  1983年宇都宮健児法律事務所(現:東京市民法律事務所)所長  1995年地下鉄サリン事件被害対策弁護団団長  2006年オウム真理教犯罪被害者支援機構理事長  2010~2011年度日本弁護士連合会会長

被害対策弁護団とオウム真理教犯罪被害者支援機構の使命

宇都宮 健児

1.地下鉄サリン事件の発生と被害対策弁護団の結成  坂本堤弁護士の妻都子さんは、1984年4月から1988年1月まで私の事務所で事務職員として働いていた。都子さんは、長男の龍彦君が生まれるのを機に私の事務所を退職したのであるが、オウム真理教幹部による坂本弁護士一家殺害事件が発生したのはその翌年の1989年11月のことであった。事件発生当初は、私たちは坂本弁護士一家が何者かによって拉致されたものと考え、一家の救出活動を展開した。有志の弁護士によって結成された「坂本弁護士を救う全国弁護士の会」や日本弁護士連合会(日弁連)の中に結成された「坂本弁護士一家救出対策本部」などが中心となって全国的に一家の救出活動を展開することになった。  1995年3月20日、朝の通勤ラッシュ時の地下鉄に猛毒のサリンが撒かれ、14人が死亡し、6000人以上が負傷するという前代未聞の無差別テロ事件が発生した。  地下鉄サリン事件発生後、実施した「オウム真理教被害者110番」には、地下鉄でサリンの被害にあった人々からの問い合せが数多く寄せられた。地下鉄サリン事件で被害にあった被害者や被害者遺族を救済するために1995年8月21日「地下鉄サリン事件被害対策弁護団」が結成された。弁護団に参加した弁護士は33人であったが、中心となったのは、坂本弁護士と司法修習所同期(39期)の弁護士であった。  私は被害対策弁護団の団長を引き受けることになった。当時私としては、地下鉄サリン事件の被害者の救済活動を通して坂本弁護士一家救済の展望も見えてくるのではないかと考えていた。  また、被害対策弁護団とほぼ時を同じくして「地下鉄サリン事件被害者の会」が結成され、営団地下鉄(現東京メトロ)の職員であった夫を亡くされた高橋シズヱさんが代表世話人となった。 2.オウム真理教に対する破産申立て  地下鉄サリン被害対策弁護団は、地下鉄サリン事件の被害者遺族16人、負傷者とその親族25人合計41人の依頼を受けて、オウム真理教と麻原彰晃こと松本智津夫と実行犯14人を被告として東京地方裁判所に3次にわたる損害賠償請求訴訟を提起した。  しかしながら、この損害賠償請求訴訟では被害回復は困難であったので、地下鉄サリン事件や松本サリン事件の被害者遺族や被害者、坂本弁護士一家殺害事件の被害者遺族などが申立人となって、1995年12月11日東京地方裁判所にオウム真理教の破産申立てを行った。1996年3月28日東京地方裁判所でオウム真理教に破産宣告がなされ、破産管財人には元日弁連会長の阿部三郎弁護士が選任された。  実は東京地方裁判所でオウム真理教の破産宣告がなされる前に、私は地下鉄サリン事件被害対策弁護団の事務局長を務めていた中村裕二弁護士と一緒に阿部三郎弁護士に会いに行き、オウム真理教破産事件の破産管財人への就任を要請し、内諾を得ていた。阿部三郎弁護士は日弁連会長当時、坂本弁護士一家の救出活動に積極的な取り組みをしてくれた会長であった。地下鉄サリン事件のような前代未聞の無差別テロ事件を起こしたオウム真理教の破産管財人が務まるのは阿部三郎弁護士をおいて他にいないと考え、阿部三郎弁護士に破産管財人就任を要請したのである。  オウム真理教の破産事件では、地下鉄サリン事件被害対策弁護団や地下鉄サリン事件被害者の会、破産管財人団などの働きかけにより、被害者の損害賠償請求債権を国の債権(労災保険、健康保険、犯罪被害者給付金などで国が被害者に金銭を支給したことにより、国がオウム真理教に対し取得した求償権債権など)よりも優先させ、被害者が国に先んじて配当を受け取ることができるようにした「オウム真理教に係る破産手続きにおける国の債権に関する特例に関する法律」(特例法)が1998年4月17日に制定されている。  また、1999年12月3日にはいわゆるオウム対策二法が制定されている。二法のうちの一つが「特定破産法人の破産財団に属すべき財産の回復に関する特別措置法」(破産特別法)である。この法律は、オウム真理教の元信者グループが事業などで利益を上げている場合、その元手はオウム真理教から流出したものと推定し、新たに得た財産は破産管財人に返還しなければならないことを定めたものである。もう一つは、「無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律」(団体規制法)である。この法律に基づき、現在でも公安調査庁がオウム真理教の後継団体に対し観察処分を実施したり、公安審査委員会が公安調査庁の請求により再発防止処分を決定している。  このオウム対策二法の成立後、オウム真理教の後継団体であるアレフから阿部三郎破産管財人に被害救済のためにオウム真理教が負っている損害賠償債務を引き受けて破産管財人に弁済していきたいという申し出があり、阿部三郎破産管財人とアレフとの間で約定書が取り交わされてる。  オウム真理教の破産手続きは、2008年11月26日東京地裁で最後の債権者集会が開かれ終結した。オウム真理教の破産手続きでは4回の配当が行われ、オウム真理教の犯罪による被害者への配当率合計は40.39%、金額にすると約15億4000万円となっている。 3.オウム真理教犯罪被害者救済法の制定  オウム真理教の破産手続きの中では、被害者に対する全額配当が困難であることが明らかになった時点で、地下鉄サリン事件被害対策弁護団と被害者の会は破産管財人と協力して、破産手続きによって救済が受けられなかった被害について、国が補償する特別立法の制定を求めて、各政党や国会議員に対し粘り強く働きかけを行った。この結果、2008年6月11日「オウム真理教犯罪被害者等を救済するための給付金の支援に関する法律」(オウム真理教犯罪被害者救済法)が成立した。この特別立法により、介護を要する後遺障害者に対し3000万円、その他の被害者に対し10万円~2000万円の給付金が支払われることになった。給付金の支給対象はオウム真理教破産事件で債権届出をしていなかった被害者も支給対象となっており、給付金は2010年12月頃までに28億640万円が支給されている。 4.オウム真理教犯罪被害者支援機構の設立と活動  2006年6月、地下鉄サリン事件をはじめとするオウム真理教による犯罪による被害者や被害者遺族の支援とテロ行為の根絶を目的として「オウム真理教犯罪被害者支援機構」が設立され、現在私が理事長に就任している。  支援機構は、オウム真理教破産事件の阿部三郎破産管財人から譲り受けた損害賠償請求債権に基づいて、オウム真理教の後継団体である「Aleph」と「ひかりの輪」に対して損害賠償請求を行ってきている。  このうち、ひかりの輪とは2009年7月に合意が成立し、ひかりの輪は支援機構に対し賠償金を支払ってきている。しかし、Alephとの間では合意が成立しなかったため、支援機構は2012年3月Alephを相手方として東京簡易裁判所に損害賠償請求の調停を申立て、2017年12月まで調停を重ねてきたが、調停を成立させることができなかった。  そこで支援機構は、2018年2月東京地方裁判所に対しAlephを被告として損害賠償請求訴訟を提起し、2019年4月東京地方裁判所はAlephに対し支援機構に賠償金の支払いを命ずる判決を言い渡しが、Alephはこの判決を不服として東京高等裁判所に控訴した。東京高等裁判所は2020年1月22日、Alephに対し支援機構に10億2500万円の支払いを命ずる判決を言い渡した。この東京高等裁判所の判決を不服としてAlephは最高裁判所に上告をしたが、最高裁判所は2020年11月17日Alephの上告を棄却し、東京高等裁判所の判決が確定している。  支援機構に対し、10億2500万円の賠償金の支払いを命ずる判決が確定したにもかかわらず、Alephは賠償金の支払いに応じていない。Alephは賠償金の支払いに応じていないばかりか、公安調査庁に対し2019年には保有資産は約13億円と報告していたのに、2024年10月末には保有資産は約4000万円と報告し、Alephの保有資産が急減してきている。このような経過を見ると、Alephは支援機構に対する賠償金の支払いを免れるために「悪質な資産隠し」を行っている可能性が強い。  支援機構は、2019年9月までに、Alephやひかりの輪から回収した賠償金のうち約3億3000万円をオウム真理教事件による犯罪の被害者や被害者遺族に対し配当を行っている。Alephから10億2500万円の賠償金を回収することができれば、支援機構としては速やかに追加の配当を行いたいと思っている。  来年2025年は地下鉄サリン事件が発生してから30年となる。現在でも、心的外傷後ストレス障害(PTSD)をはじめ、空前の無差別テロ事件で受けた心身の傷が癒えない被害者や被害者遺族が多数存在する。その意味では、被害者や被害者遺族にとっては地下鉄サリン事件は終わっていないと言える。  また、被害者や被害者遺族の高齢化が進んでおり、被害者や被害者遺族のなかには亡くなられた方も出てきているので、支援機構としてはできるだけ早くAlephから賠償金を回収して被害者や被害者遺族に配当をしたいと考えている。  地下鉄サリン事件を風化させず、わが国で再びこのようなテロ事件を発生させないようするため取り組みを継続することが、地下鉄サリン事件に関わった者の責務だと思っている。 ◆筆者プロフィール  1971年弁護士登録、東京弁護士会所属  1983年宇都宮健児法律事務所(現:東京市民法律事務所)所長  1995年地下鉄サリン事件被害対策弁護団団長  2006年オウム真理教犯罪被害者支援機構理事長  2010~2011年度日本弁護士連合会会長

関心を持ち続けましょう

吉田 正穂

1995年3月20日、当時、私は会社員でした。入社5年目を迎えようとしていました。勤務先であった品川駅高輪口近辺のオフィスで事件の発生を知りました。コンピューター関係の営業担当であった私は、顧客を訪問するために営団地下鉄を利用することがしばしばありましたので恐怖を感じました。また、同年1月の阪神淡路大震災に続く大事件に、世の中が一層混沌とした雰囲気に包まれたことを覚えています。  オウム真理教については、1980年代後半の大学のキャンパスでの勧誘活動、1990年の選挙活動などを目にしていましたので、得体のしれない奇異な団体という印象を抱いていました。しかし、このような凄惨なテロ事件を起こすような危険性を内包している団体というまでの認識はなかったので、大きな衝撃を受けつつ、どうしてこのような事件を引き起こすことになったのか、率直に言って理解できませんでした。当時の一般人は概ねそのような印象だったのではないでしょうか。  もっとも、この出来事は、私が抱えていた個人的な問題にも少なからぬ影響を及ぼしました。当時、私の親族が世界基督教統一神霊協会(現世界平和統一連合、以下「旧統一教会」といいます)に取り込まれてしまっていました。地下鉄サリン事件の1年後、入信して6年ほど経過していた親族の問題への理解を深めるべく、アメリカ人の旧統一教会信者であったスティーヴンハッサンの著作「マインドコントロールの恐怖」を読んで、カルト団体の恐ろしさを痛感しました。私と同世代のオウム真理教の信者たちが、教祖と組織に取り込まれて価値基準を変容させられた結果として、凄惨な事件を引き起こすに至り得ることを実感することもできました。そのようなカルト団体に親族を取り込まれたままにはしておけない。そんな思いが募りました。  その後、1998年、親族を旧統一教会から救出することができました。カウンセラーを始め多くの方々のお力をお借りした経験を踏まえ、法学部出身の自分が何らかの形でカルト問題に関わるには…と考えて、脱サラして弁護士への転身を志しました。2006年に弁護士登録をして以降、全国霊感商法対策弁護士連絡会に所属して、旧統一教会を始めとするカルト団体と対峙したり、霊感商法・開運商法被害に取り組んだりするなどしてまいりました。2011年からはオウム真理教被害対策弁護団にも加わり、オウムの後継団体であるアレフを相手方とする訴訟等に関わっています。  私が弁護士として相談を受けるカルト被害は、通常、長期間にわたって潜行して外部からはわかりにくい形をとります。信者が加害対象になっているため、団体内部の問題とされてしまって、外部の者が関わることが難しい状態になっているからです。カルト団体は宗教団体に限りません。自己開発セミナーのような形態をとることもあれば、政治活動・教育活動・商業活動を行うカルト団体もあり得ます。それらの団体は、生命身体への侵害にまでは至らずとも人権を侵害します。正体や目的を隠した勧誘や、教祖・団体の主宰者らが人の価値基準を変容させて自由な意思決定が出来ない状態を作出することは自己決定権を侵害するものですし、物品を購入させられたり献金をさせられたりすることは財産権を侵害するものです。 地下鉄サリン事件以降、カルト団体に厳しい目が向けられていた時期がありました。2000年には「法の華三法行」の幹部が逮捕され、東京地裁に破産申立てがなされました。2011年以降にはヒーリングサロンを運営する「神世界」の教祖らが組織的詐欺の罪に問われ、有罪実刑判決が下されました。旧統一教会に対して、脱会者からの損害賠償請求などが裁判所において認容される判決が下されるようになったのも、そのような時流と無縁ではありません。しかし、2010年代中頃から、徐々にカルト団体に対する警戒心が過去のものになっていったように思います。「オウムはまだ活動しているの?」「霊感商法ってまだあるの?」等々の声も耳にして、カルト問題が潜在化してしまったようにすら感じられました。  2022年7月の安倍元首相銃撃事件以降、旧統一教会に対してはあらためて厳しい視線が向けられ、国が解散命令請求を申し立てるまでに至っています。エホバの証人・旧統一教会を始めとする二世信者らの告白により、生活の困窮のみならず、幼少期の虐待に等しい被害、その後も植え付けられた価値観に縛られ苦悩が続くこと等が明らかとなっています。  私は、旧統一教会やオウム真理教が行ってきた、宗教に名を借りた人権侵害を許し難いものと考えています。中でも地下鉄サリン事件は、加害対象が無差別大量であり、人の生命を奪ったり重度の後遺障害を及ぼしたりしたものとして、人権侵害の究極かつ最悪の発露形態だと思っています。このような加害行為が許されないことは火を見るより明らかです。ですが、そこまでに至らないカルトによる人権侵害も許してはなりません。許さないことが最悪の結果を未然に防ぐことにもつながると思います。そのためには、社会全体がカルト問題に対する理解を深め、厳しい視線を注ぎ続けるべきだと思っています。  そのような思いを抱きつつ、今後もライフワークとしてカルト問題に取り組んでゆきたいと考えている私にとって、「地下鉄サリン事件」は年々新たな存在となっています。そして、多くの方にとっても同様であってほしいと願っています。 ◆筆者プロフィール  2006年弁護士登録、横浜弁護士会(現神奈川弁護士会)所属  2006年全国霊感商法対策弁護士連絡会  2011年オウム真理教被害対策弁護団  2022年日本弁護士連合会霊感商法等の被害の救済・防止に関するワーキンググループ事務局長

2つの前触れとなった事件

伊藤 芳朗

地下鉄サリン事件は防げたはずの事件だった…そのことは私の実体験です。  1989年11月の坂本堤弁護士と家族の失踪(実際は殺人)事件に、坂本さんと同期で親しかった弁護士である私は、すぐさまオウム真理教被害対策弁護団と「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」の二足のわらじで活動に加わりました。  1994年4月、私は弁護団の小野毅事務局長から「宮崎資産家拉致事件」と後に呼ばれる事件を担当するよう指示されました。同事件は、宮崎県のある資産家の娘さん2名がオウム真理教の信者となり、教団の指示するままにお父様を教団内に拉致して外部と遮断してしまった事件です。事件は他の家族・親族の懸命の捜索の結果、同年9月に無事お父様を救出することができました。強制捜査後、娘さんたちも目が覚め棄教して無事戻りました。  ところで、その年の暮れ頃から、不思議な現象が生じました。それまではTBSだけがオウム真理教問題をずっと随行取材してくれていたものが、他のテレビ局や新聞社が次々と私のところに取材に来るようになったのです。それも、「宮崎資産家拉致事件」の全容を教えて欲しいというのです。その中の、以前から知己の記者がこっそり教えてくれました。「年明け早々、この事件で警察は令状を取ってオウム真理教への一斉捜査に入る予定です。」と。私は、坂本さん一家の救出のためにはオウム真理教への強制捜査しかないと考えてこの活動に加わりましたので(多くの仲間もそうでした)、やっとここまで辿り着いたという思いでした。  ところが、年明け早々、別の予期せぬ出来事が世間を大混乱させました。1995年1月17日の阪神淡路大震災です。その件で強制捜査はいったん保留となったということも私は記者から聞かされました。大震災がなければ地下鉄サリン事件はなかったのです。  次に、私は同年3月はじめ、TBSの記者から目黒公証役場事務長拉致事件のことを詳細に聞くことになりました。同役場事務長の假谷清志さんが何者かに白昼拉致され、おそらくオウム真理教の仕業であろうということはすでに報道されていましたが、その件で改めて警視庁がオウム真理教への一斉捜査に踏み切ろうとしている、というのです。私は毎日のように、この記者と情報交換しながら捜査の進展を見守りました。  私は後に假谷さんのご家族から主として民事事件の依頼を受けることになりますが、あとから、本件は假谷さんを生きたまま救えたはずの事件であったことを知ります。假谷さんの白昼拉致が起きた直後、息子さんたちはある程度予期していたために迅速に警視庁に被害相談に行き、これがオウム真理教の仕業に間違いないことや、おそらく上九一色村に連れて行こうとしているはずだという情報まで提供し、交通検問による救出をお願いしました。しかし、残念なことに警視庁の対応が緩慢で当日の検問には至りませんでした。警視庁も数日後に事態の全容を知るに至り、遅まきながら假谷さんの救出を含めた一斉捜査に入った、というわけです。私は連日のようにTBS記者からの情報提供を受け相談対応しつつ、今か今かと強制捜査の日を待ち望んでいました。  ところが、事件から3週間が経過した3月20日、地下鉄サリン事件は起きてしまったのです。  地下鉄サリン事件はこの目黒公証役場事務長拉致事件の捜査をかく乱するためにオウム真理教が起こしたものとされています。警視庁はじめ各警察の実働警察官たちの、その後の献身的な活動を見るにつけ、指揮官たちのもう一歩早い決断があれば、この2件の前触れとなった事件のいずれかの捜査によって、地下鉄サリン事件は未然に防げたのではないかと思います。私はそのことを考えるにつけ、今でも無念でならないのです。坂本さん一家は拉致ではなく自宅で即時殺されていたので、一家の殺人事件は私たちに防ぎようはありませんでした。しかし、坂本さん一家の願いは、「これ以上犠牲者を増やさない」ことではなかったか。こんなにも甚大な被害を未然に防げなかった私たちは、後世に、本件を悪しき教訓として、二度と同じ轍を踏まないよう願うばかりです。 ◆筆者プロフィール  1987年弁護士登録、東京弁護士会所属  1989年坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会  1989年オウム真理教被害対策弁護団  1995年地下鉄サリン事件被害対策弁護団

はじまりは坂本弁護士失踪事件だった

中村 裕二

平成7年、その年は、日本に住んでいた人ならば、誰にとっても忘れられない1年だったと思う。1月に阪神淡路大震災が起こり6000人以上が亡くなり、3月に地下鉄サリン事件が起こり12人が死亡し、5500人以上が受傷した。しかし、私にとっての地下鉄サリン事件は、平成元年からスタートしている。  私は、平成元年11月、留学先のロンドンの日本大使館で朝日新聞を開いていた。大好きな巨人軍が近鉄バッファローズと激突した日本シリーズの結果を知りたかったからだ。しかし、その三面記事からいきなり友人である坂本堤弁護士と家族の写真が目に飛び込んできた。  坂本さんと家族が失踪したらしい・・・。  そんな馬鹿な話があるか・・・。  あの坂本さんが失踪するはずなどない・・・・。  オウム真理教に誘拐されたに違いない・・・。  坂本さん、絶対に生きていてくれ!  その翌年、私は日本に戻り、仲間の弁護士たちが結成した「救う会」の一員として坂本さんたちの救出活動を始めた。しかし、手がかりは全くなかった。その頃、オウムはすっとぼけたことばかり言っていた。警察も相手が宗教法人という理由だけではじめから弱腰だった。私たちは、遅々として進まない捜査に業を煮やし、国会議員を伴って、警察庁に陳情に出かけた。当時の國松孝次刑事局長は、私たちに対し、「相手が特殊な集団なので、慎重に捜査を進めています」と回答し、警察の捜査のターゲットがオウムに絞られていることを示唆してくれた。しかし、坂本事件は解決しないまま満5年を経過した。  平成6年6月、松本サリン事件が起こり7人が亡くなり、600人以上が受傷した。翌年1月1日の読売新聞で、オウムの拠点がある山梨県上九一色村で、サリン残留物が発見されたと報道された。私たちは2月、ある理学博士を招き、サリンという化学物質がどのようなものか講義を受けた。博士から、サリンは、貧者の核兵器と呼ばれるごとく製造が容易であること、しかしその管理や取り扱いが大変難しいこと、もとより、サリンは猛毒で、少量でも大量の人間を死にいたらしめることができること、松本市の河野義行さんの自宅倉庫から押収された薬品類では、そのすべてを利用しても到底サリンは製造できないこと、長野県警は化学捜査が苦手であること、等々を教えていただいた。  オウムがどこかでサリンをまくかもしれない・・・。  坂本さん一家の救出活動をしていた私たちに、漠然とした、しかし切迫感を伴った恐怖感が襲いかかってきた。密閉された空間で、大量の人間が同時存在できる場所、それはどこか。ドーム球場、アリーナ、公会堂・・・。結局、オウムが選択したのは、地下鉄だった。  私は、地下鉄サリン事件は、防ぐことのできたはずのテロだったと考えている。もし、坂本弁護士一家殺害事件をもっと早く解決していれば・・・。  残念ながら、坂本さんの笑顔をもう一度見ることはできなかった。坂本さんと一緒にカラオケでデュエットすることもできない。子どもや障害者の人権問題をライフワークにしようとしていた坂本さんの志は、坂本さんの命と一緒にはかなく消えた。坂本さんのことだから、今頃は人権問題に関する本もたくさん書いていただろう。明るくて、豪快で、ものおじしない性格だから、法律を武器にして横暴な権力者をさぞかし困らせていただろう。他方、持ち前の行動力を生かし、現場まで臨場して、自分を上手に表現できない社会的弱者をたくさん救っていたことだろう。  私にとっての地下鉄サリン事件は、これからも続いていく。  生き残った、できの悪い私に、神様が弁護士という資格を与えてくれた理由を見つけられるまで、私にとっての地下鉄サリン事件は終わらない。 ◆筆者プロフィール  未来市民法律事務所・所長  1987年弁護士登録、東京弁護士会所属  1989年坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会  1995年地下鉄サリン事件被害対策弁護団・事務局長  2006年オウム真理教犯罪被害者支援機構・副理事長  (2024年10月現在)

地下鉄サリン事件30年に寄せて

瀧澤 秀俊

1989年11月、「坂本さん一家がオウムに連れ去られた!」という第一報を聞いたときの凍り付くような衝撃を今でも覚えています。坂本さんは司法研修所の同級生で、仲の良い友人でした。以来、5年10か月にわたり、「救う会」の一員として、「生きて帰れ!」と願い、まさに日本中を飛び回って救出運動に取り組みました。最初からオウム真理教がもっとも疑わしい存在であったものの、決め手がなく、「宗教弾圧だ!」と開き直る教祖らに警察もマスコミも及び腰。テレビに出演して麻原・上祐と「対決!弁護士vsオウム」などと煽られても、為す術もないというのが現実でした。   1995年3月、いよいよオウムに警察の強制捜査が入るようだという話しは聞いていましたが、あの朝、地下鉄サリン事件のニュースを見たとき、それがオウムによるテロであるとはすぐに思い至りませんでした。事務所からすぐ近くの霞が関で未曾有の大量殺人事件が起きているのに、けたたましいサイレンやヘリコプターの爆音が聞こえているのに、テレビ画面を通して見る凄惨な光景は現実と受け入れられず、遠い世界の出来事を見ているようでした。  当時、「救う会」の他に弁護士会の対策会議や、オウムから訴えられた漫画家小林よしのりさんの弁護団などに忙しく取り組んでいました。教団幹部や教祖が次々に逮捕され、地下鉄サリン事件がオウムによる捜査妨害を狙ったテロであったことが判明。まだ逃げている信者もいたことから、世の中は非常に不穏で、私の自宅も警察の警備対象となりました。当時は弁護士名簿に自宅住所が掲載されており、私の自宅周辺でオウムにビラをまかれたこともあって、とても気持ちの悪い時期でした。  7月、「地下鉄サリン事件被害110番」に参加。弁護団を結成して被害の実態を把握し、オウムを破産に追い込む準備が進められました。週末も使い、膨大な被害者1人1人の被害を確認し、損害をまとめました。亡くなられたり重篤な被害に遭われた被害者には担当者を決め、面談をしました。お墓にお参りもしました。ご家族からお気持ちを伺うのはとても辛いことでしたが、オウムを追いつめるためにとお願いしました。  9月、坂本さん一家3人の遺体が発見されました。3県にまたがり、信じられないような山奥に、6年近く離ればなれに埋められていました。私自身、一縷の望みが断ち切られ、無力感と喪失感に激しく打ちのめされました。テレビは連日連夜のオウム報道。私も各局から出演依頼を受け、朝から晩までニュースやワイドショーを掛け持ちしました。  12月、ついにオウムに対して破産申立て。弁護団は極秘裏に準備をしましたが、申立ての前夜、なぜか新聞記者が自宅の前で待ち伏せしていました。  坂本さんのご遺族からオウムに対する民事訴訟も提起し、法廷で、坂本さんを手にかけた実行犯に対する尋問も担当しました。亡くなられた人は帰ってきませんが、我々にできるせめてもの弔い合戦でした。  被害者ご遺族の思いはお察しするほかなく、比ぶべくもありませんが、1995年は、私にとっても生涯でもっとも辛く、もっとも慌ただしい、濃密な1年でした。あれから四半世紀が過ぎ、事件後に生まれた弁護士も増え、時代は令和です。坂本事件も地下鉄サリン事件も歴史上の出来事になりつつあります。しかし、まだまだ終わっていません。アーレフらに対する損害賠償請求は今でも道半ばです。あの年の言葉にならない悲しさやヒリヒリするような緊迫感を共感してもらうことは難しいですが、できうる限り語り継いでいくことが私たちの使命であると思っています。 ◆筆者プロフィール  1987年弁護士登録、東京弁護士会所属  1989年坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会  1998年サリン事件等共助基金代理人  2018年日本弁護士連合会弁護士業務妨害対策委員会委員長

止めることはできなかったのか?

小野 毅

その日は、午前10時に東京高裁で裁判が予定されていたため、朝は自宅から直接霞ヶ関駅へ向かった。しかし、人身事故のために日比谷線が不通となっているとのことだったので、そのまま東横線で渋谷に行った。中目黒駅を通り過ぎるとき、3年前の大事故を思い出し、地下鉄のトンネルの入口を覗いたが、何も見えなかったのを良く覚えている。裁判所に行くために、銀座線の虎ノ門駅から歩いたのだが、坂本弁護士一家の救出運動を熱心にやっていただいている先輩弁護士と、オウム真理教に対する強制捜査はいつなのか、という話をしながら歩いていた。  裁判が終わると、東京弁護士会館(当時)に行ってテレビを見て、大規模にサリンが使われた疑いがあることを知った。背筋が寒くなった。まだ、オウム真理教の名前は報道されていなかったが、サリンを使うテロ犯罪など、オウム真理教しかあり得ない。事務所に戻ってからも言われたが、「オウム真理教が僕らを狙ったものだったかもしれない」という思いも心をよぎった。その後、数回にわたり、電車内で異臭がするという事件が起きているが、いつも私は事務所におらず、東京へ行っていたので、事務所の人間などには大変心配をかけ続けたものだ。  翌21日には、翌日の強制捜査を前にしての緊急弁護団会議が開かれることとなっていた。思えば、私たち自身、22日の強制捜査をほぼ確定的な事実として聞いていたのだから、情報網を張り巡らせていたオウム真理教が22日の強制捜査を阻止し、捜査を攪乱する目的で、地下鉄サリン事件を起こしたことは容易に推測できた。今思うことは、私たちオウム真理教被害対策弁護団として、この地下鉄サリン事件を止めることはできなかったかという痛恨の思いである。 ◆筆者プロフィール  1983年弁護士登録、横浜弁護士会(現:神奈川弁護士会)所属  1989年オウム真理教被害対策弁護団事務局長  2003年とらすと法律事務所所長  2014年横浜弁護士会(現:神奈川弁護士会)会長

次の日の朝

武井 共夫

1995年3月21日の春分の日の朝、私の運営する市民総合法律事務所の大会議室は、重苦しい雰囲気に包まれていた。前日の地下鉄サリン事件を受け、緊急にオウム真理教被害対策弁護団会議を開き、メンバーが集まったのである。弁護団は、松本サリン事件を担当している弁護士から事情を聞くなど、かねてから教団とサリンとの関係を強く疑っており、地下鉄サリン事件の第一報を聞いてメンバーの誰もがオウムの仕業だと確信した。  会議では、オウムの仕業であることを前提に、それまでの弁護団の活動にもかかわらず、空前のテロ被害を生んでしまったことへの悔いとともに、これ以上の被害を生じさせないためにも、どうやってオウムの動きを封じたらよいか、また攻撃の対象がオウムに敵対する勢力だとすれば、当然自分たちも真っ先にその対象となりうるので、どう対処するかなどが議論され、全力をあげて教団の動きや情報を把握することに努め、警察に協力して情報や資料を提供して警察を動かしていこうということになった。  1989年11月初旬から、弁護団創設者であっって当時私の所属していた横浜法律事務所の6年後輩である坂本堤弁護士とその妻子の行方がわからなくなっており、弁護団は坂本一家の事件がオウムの仕業であるとの確信を抱いてオウム対策に取り組んできていた。阪神淡路大震災などで遅れていたが、やっと警察の強制捜査の手が教団に伸びようとする矢先の、教団が捜査攪乱のためもあって引き起こした事件であった。  事件後間もなく、メンバーの生活も一変した。従前から24時間警察の警備下におかれていた滝本太郎弁護士に加え、私と小野毅弁護団事務局長も半年間、警察の24時間警備下に入り、いつ教団によって狙われてもおかしくない状況が続いていた。  弁護団は、教団の各種の違法行為を社会的にも明らかにし、警察にも協力しながら、教団を追い詰めていった。そして、警察の捜査が進む中で教団の引き起こした数々の凶悪犯罪が明らかとなり、坂本弁護士一家も教団により殺害されていたことが判明した。  私たちは、教団の活動を財産面から法的に封じるためと被害者救済のために、地下鉄サリン事件をはじめとする教団による各犯罪の被害者の代理人として教団の破産を申立て、ついに12月14日には各地の教団財産の差押えにこぎ着け、私はかつて坂本弁護士一家が行方不明になった直後に麻原彰晃こと松本智津夫に面会を求めて訪れたが入ることさえ拒否された富士宮の総本部に赴いた。教団の責任者が、「あの横浜弁護士会の武井弁護士が来ているが、騒がないように」などと放送する中、教団資産の差押えをして回り、ヘリコプターなどすべての財産を差し押さえたときは、やっとここまで追い詰めることができたかと感慨深かった。  事件からすでにもう12年がたとうとしている。しかし、いまだに教団は名前を変えて存続しているし、被害者にも被害の爪痕は残っており、被害者救済は経済的な面に限っても不十分なままである。今思えば、自分こそ、地下鉄サリンの被害者と同じ立場になっても決しておかしくない状況であった。私は、一生忘れることなく、そのことを噛み締めて生きていこうと思う。 ◆筆者プロフィール  1981年弁護士登録、横浜法律事務所・横浜弁護士会(現:神奈川弁護士会)所属  1989年坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会  1989年オウム真理教被害対策弁護団  1992年市民総合法律事務所・所長  1995年地下鉄サリン事件被害対策弁護団副団長  2008年横浜弁護士会(現:神奈川弁護士会)・会長  2012年日本弁護士連合会副会長  2016年オウム真理教犯罪被害者支援機構理事

止められたはず

滝本 太朗

1995年3月20日朝、「やられたっ」と思った。東京消防庁に、オウム説法で知っていた「パム」「硫酸アトロピン」のことを電話しようとしたがつながらなかった。地下鉄サリン事件は止められたはずだった。地下鉄サリン事件があったから翌々日の強制捜査があったのではない。翌々日の強制捜査を予定したのに、警察がまともに監視していなかったから、地下鉄サリン事件は起きた。ここにいたるまで、前年からの警察の対応などを書く。  1994年3月、宮崎県の資産家が東京そして上九一色村まで拉致された。弁護団は通報したが動かず。  5月、警視庁管内の三鷹市内で脱会の関係先から盗聴器が発見された。私は事情を説明し、告訴したが動かず。  6月、旧ソ連製大型ヘリがオウム施設に到着。異常なのに警察は腰を上げなかった。6月頃から上九一色村では逃亡者が続出したが警察はまともな情報収集体制を取らなかった。6月27日の松本サリン事件では科学捜査に欠け的外れの捜査にこだわった。  7月の二度にわたる上九一色村の異臭事件も地元の保健所が不十分な対応をしただけだった。  8月、私はオウムが刃物を作るための機器を購入したという情報を取得し通報したが、動かず。8月24日、上九一色村では盗聴器が見つかり、さらにテレビ局が見つけたが、まともに対応しなかった。  9月、宮崎資産家拉致事件の被害者を家族・弁護団の努力で奪回して告訴したが、まともに対応せず。またオウムが薬物を使っている供述を取得して通報したが、動かず。9月20日、江川紹子氏宅にガス攻撃。通報したが、対応の実あったのは10月5日からの江川氏宅と私の所の、県警による24時間警備だけだった。同じ月、これとの関連でようやく上九一色村の土を採取。鑑定結果は11月、サリン製造が明白になった。  10月末、信者が脱走し、私や警察に協力してくれた。内部のLSDやリンチによる死亡事件、薬物使用の実際を警察に通報したが、動かず。信者自身が被害者の監禁事件もあったが、強制捜査にいたらず。  11月2日、私は「集団自殺、虐殺の危険性について」と上申したが、動かず。オウム内部ではすでに多くの死亡事件があり、記憶を失わせる行為もされていた。  12月、私は薬物イニシエーション後3日目の人を脱会させることができ、血液採取を警察に要望したが果たせず、医師に依頼して血液を保管してもらい引き続き鑑定を依頼するが対応なし。12月末、全国警察会議で強制捜査を決めた模様だが監視不十分のまま。  1995年元旦、読売新聞が上九一色村でサリン副生成物との報道。4日、オウムが上九一色村の住民を毒ガス製造とした告訴、記者会見。オウム真理教被害者の会(後に「オウム真理教家族の会」となる)会長永岡弘行氏が襲撃される。警視庁は、私が強硬に「後にとんでもない失態とわかりますよ」と言ってようやく6日に実況見分。鑑定では農薬を措定したために同じ有機リン系の「スミチオン」とされ、警視庁は私にこれを嗅がせるまでして自殺未遂扱いにした。警察は前記信者らの調書作成、髪の毛の鑑定などした。同月、薬物を投与されていた19才女性が救出されたが、警察は動かず。  2月、上九一色村住民が教祖を名誉毀損で告訴したが、動かず。2月28日假谷さん拉致事件があったが、上九一色村でまともに監視せず。私は強制捜査後の取調手法――マインド・コントロールされた被疑者の対応方法――を文書連絡。  3月、シークレットワークが確実な井上嘉浩・中川智正について通報するも、監視せず。同月13日「前例のない事件に対しては前例のない体制で」と早急な強制捜査を求め、カツ監視を求めたが不十分。15日、霞ヶ関アタッシュケース事件、警察にオウムだと述べたが認識不十分。18日頃には、20日の週に強制捜査があろうことは前の週に関係者に知られていたのに、オウムの主要人物を監視せず。  もちろん、犯人わけても絶対者である教祖が悪いのだが、この経緯で地下鉄サリン事件になったこともまた事実である。警察は、1995年3月22日まで、宗教団体相手という壁、管轄の壁、科学捜査の壁などがあったにしても、あまりの体たらくだった。オウム真理教事件で殺された人は、国家権力の代表者らの代わりに殺されたのである。  さて、日本国はどうするのだろうか。その正当性はどうやって担保されるのだろうか。 ◆筆者プロフィール  1983年弁護士登録、横浜弁護士会(現:神奈川弁護士会)・所属  1989年オウム真理教被害対策弁護団  1990年カメラフィルム奪取事件の被害  1994年滝本サリン事件の被害、VX事件、ボツリヌス菌事件  1995年「カナリヤの会」結成(脱会信者のケア)  1995年日本脱カルト協会理事・事務局

第7サティアン解体の顛末

阿部 三郎

このたび破産管財人団は、サリン生成の元凶施設であった第7サティアンの解体の顛末について、リポートさせていただきます。別掲の写真は旧上九一色村の平成12年6月29日「闘争の軌跡--上九一色村とオウム真理教」と題する刊行物に掲載されたものです。管財人は町当局に、このたびの記念手記集に投稿することで掲載の許可をいただきました。(解体前後の写真2枚ですが、ここでは省略します)  こんな平和な原野に、こんな荒っぽいパイプむき出しの3階建の劇毒物の製造施設を建設したのです。用地は1984㎡、建物面積は497.70㎡、建物延べ面積は1439.10㎡です。  教団は、この施設については礼拝施設であるとして巨大な「シバ神」の顔のレリーフを掲げていたといわれるが、平成8年4月早々管財人団が破産宣告と同時に現場を確認、支配した段階では「シバ神」は取り除かれ、施設1階は配管、パイプ、タンク、計器類などによる化学プラント設備などで雑然をきわめておりました。実はこの第7サティアンの裏にサリン製造実験室があったのです。この棟を「クシティガルバ棟」「ジーヴァカ棟」と名乗って、土谷正美、遠藤誠一らがサリン製造の化学班を編成し、その生成の実験に当たっていたのでした。ここで松本サリン、地下鉄サリン事件等にいたったあの忌まわしいサリンが生成されたのか、あれだけ多くの殺傷事件のサリンはこんなところで製造されたのか、と改めてわき起こる彼らに対する怒りの念を抑えることができませんでした。  管財業務は順調に進み、平成8年11月1日上九一色村第6左ティンよりの退去も含み、全施設よりの信者の退去が実現できました。問題は、これに伴っての施設の解体およびその費用の調達でした。その年8月9日、第6サティアン前の木造建物3棟の解体の際、教団側より管財人団に申し入れられた9月25日までには信者全員が全施設より退去し、管財人団に明渡す旨の意向が示されて以来、これに備え、管財人団は解体費用については被害者の方々の弁済資源となっている財団より支払いしない方向で各方面と交渉をしてきたのでした。  その結果、幸い12月、群馬、山梨、静岡3県の衆参両院の議員による議員連盟が結成され、解体費用は国の補正予算による措置として4億9429万9000円と計上され、刑事事件の証拠になる第7サティアン以外の施設はすべてこれで解体されたのでした。  第7サティアンについては付属2棟の建物クシティガルバ棟、ジーヴァカ棟と共に平成10年9月より解体に着手する目途がつくこととなりましたが、計上された解体費用は8000万円でした。これも国の予算によるものです。ところで、この第7サティアンの解体については、国際法上の問題がありました。猛毒のサリンを製造したため、プラントの一部は化学兵器禁止機関(OPCW、事務局はオランダ)の指定項目として査察対象をなっており、その解体撤去が全部完了したあと、同機関がこれを査察確認をすることとなっていたからです。そのためその査察手続を念頭におきながら万全を期さなければならないことでした。  平成10年11月9日、いよいよ解体工事の着手です。最後の施設ということで報道各社より取材申込みが殺到いたしました。現場にはまだ薬品類が山積し、場内もパイプ、電線、タンク等々が密林のように立ち並んで雑然をきわめている中で、どこにどのような危険な薬品やその他危険物がないとも限らないので、取材については厳しく統制しなければならないと感じました。前ページに掲げたのがそのための管財人団の示した公開要領です。(※最後に転記)  こうして解体は12月中旬までにプラントの解体が終了し、さらに12月12日には2名の査察員によるOPCWの査察も完了し、化学薬品の搬出となりましたが、200リットルのドラム缶で約150本もありました。解体後は地下に打ち込まれたコンクリートの基礎部分を取り除き、その跡も整地することとなりました。  このようにして上九一色村には約32棟の建物、一時は870人もの信者が在住しておりましたが、すべて退去、解体完了し、ようやく元の原野に戻ることとなりました。  小林村長さんがこの闘争の軌跡の中で「長年の悲願であった完全撤去が実現し、新しい年を迎えるにあたり村をあげて喜んでおります。跡地は地域と時間をかけて話し合い、有効利用を図りたい」と述べておられたことが印象的でした。  一方、日本においては、かつてなかった凶悪なテロ犯罪の元凶施設を完全に解体することができ、管財人団の義務を果たし得たことで、関係方面の皆さまに感謝申し上げたことでありました。以上が解体の顛末であります。 《第7サティアン公開要領 》   破産者オウム真理教破産管財人 弁護士 阿部三郎 1.公開の目的  オウム真理教による犯罪史上類を見ない、また近代的化学兵器たるサリンによる大量殺傷事件である地下鉄サリン事件、松本サリン事件等に使用したサリンを生成した第7サティアン(サリン工場)の内部を、その解体の前に報道機関を通して一般に公開し、もって二度とこの種の事件を起こさせないように、歴史上の記録として残すものとする。 2.公開の方法  刑事手続として押収中だった第7サティアンを東京地方検察庁から還付を受けた直後(平成10年9月16日午後2時から3時)まで公開する。  公開後直ちに建物解体のため、地元上九一色村に敷地とともに引き渡し、同村当局において建物(付属建物を含む)及び内部の施設内の残存化合物の安全性を確認しながら解体する。  従って、公開は未だ安全性の確認されない段階において、破産管財人の責任で行うため、報道機関を東京司法記者会所属の15社以内及び山梨県政記者クラブ所属の16社以内に限定し、人数は各社3名以内とする。  公開する範囲は、化学兵器禁止機関(OPCW)による制約や施設の危険性を考慮して第7サティアン入口近くの平土間から見通せる範囲とする。立入りできる範囲をトラロープ、バリケード等で囲い、その範囲外は「危険につき立入禁止」の立札を立て、警備は破産管財人が山梨県警察に依頼して行う。  なお、付属建物のクシティガルバ棟、ジーヴァカ棟は、何れも内部のスペースが狭く、かつ危険であるため公開しない。 3.報道関係者に対する注意事項の伝達  報道関係者には、次の注意事項を書面をもって伝えるとともに、事前に(同日午後1時から2時まで)富士ケ嶺公民館においてその趣旨を説明して徹底する。  立入禁止区域には、絶対に立ち入らないこと。  公開に立ち会う報道関係者は腕章を付け身分証明書を携行する。  破産管財人の制止を聞かず立入禁止区域に入った場合は、建物から退去させるとともに、それによって事故等が発生しても破産管財人の責任を問わないことの誓約書を提出させる。 ◆筆者プロフィール  1954年弁護士登録、東京弁護士会所属  1985年東京弁護士会会長  1992~1993年日本弁護士連合会会長  1996年破産者オウム真理教破産管財人  2010年逝去84才
被害対策弁護団としての使命
被害対策弁護団とオウム真理教...
関心を持ち続けましょう
2つの前触れとなった事件
はじまりは坂本弁護士失踪事件だった
地下鉄サリン事件30年に寄せて
止めることはできなかったのか?
次の日の朝
止められたはず
第7サティアンの顛末

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