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穏やかな海

手記(ジャーナリスト・作家)

本当に知りたかったこと

村上 春樹

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

1995年3月、最初に「地下鉄サリン事件」の報道を目にしたとき、言うまでもなく、本当にやりきれないひどい出来事だと感じたわけですが、その事実関係が次第に解明され、明らかになるにつれて、そのやりきれなさはますます強いものになっていきました。そしてこの事件は日本の戦後の歴史を画するひとつの大きな指標になるのではあるまいか、という気持ちを抱くようになりました。  僕は当時アメリカ東海岸に住んでおり、そのために数日遅れの新聞や、限られたニュース報道で事件の進展を追わざるを得なかったのですが、それにしても様々な報道メディアによる事件の切り取り方に対して、いささかの疑問を抱くようになりました。この事件についてはご存知のように、実に大量の報道がなされ、多くの意見が語られたわけですが、結局は同じことの言い換えが声高に繰り返されているだけではないか、という印象がそこにはありました。その出来事には大きな危機が暗示されており、一般にそれは強く認識されているにもかかわらず、僕が目にする報道からはなぜか真の危機感のようなものが伝わってきませんでした。  その夏に帰国し、この事件に関して何か自分にできることがあるのではないだろうかと考えるようになりました。結局のところ僕が本当に知りたかったのは、その事件にかかわった人々の生の姿であり、心のありようだったのです。不幸にもその事件にたまたま巡り合わせた人々は、いったいどのような人であったのか、彼らは事件の渦中で何を感じたのか、その出来事は彼らの中の何を変えたのか、それを詳しく聞き取り、文章にできればと思いました。それも細部の事実までカバーした、そして語る人々の鼓動がそのまま伝わってくるような、息の長い、綿密なインタビューにしたかったのです。それが最終的にどんな意味を持つことになるのか、正直言ってその時点では見えていませんでした。僕にわかっていたのは、そのようなインタビューには間違いなく大きな意味があるはずだし、やるからにはとことん腰を据えて、時間をかけてやらなくてはならない、ということでした。  最初のうち、出版社サイドはそれほど乗り気ではなかったと記憶しています。僕がいったいどういうことをしたいのか、そのイメージがうまく伝わらなかったのでしょう。僕自身にもそのゴールは具体的に見えていなかったわけですから、これはある程度やむを得ないことかもしれません。直感というのは、論理立てて整合的に他人に説明することのできないものです(どうして僕が地下鉄サリン事件を扱わなくてはならないのか、という出版社側の疑念は最後まで解消しなかったようです)。しかしこちらの真剣な熱意をなんとか理解してもらい、担当編集者の尽力によってチームが組まれ、取材が開始されました。取材はほぼ一年間続きましたが「どうして小説家がこんなところにしゃしゃり出てくるのか」という疑問や反感は、被害者の方々の中にも少なからずあり、取材は決して簡単なものではありませんでした。売名や、本を売ることを目的として、事件被害者を都合良く利用しているのではないかと思われもしました。罵声を浴びせかけられることもありましたが、もちろん罵声を浴びせかけられることも、僕がしなくてはならなかった大事な事実のひとつなのです。これだけの多くの犠牲者を生んだ事件に正面から関わり合って、無傷で出てくることなど誰にもできません。人はそれぞれの立場で、それぞれの傷を受けることになります。  今になって思い返してみれば、一年間取材を続け、人々の語る声を聞き続けることで、僕自身も確実に変化を遂げていったようです。このようにほとんど白紙の状態で、暗中模索で進んでいったからこそ、自分の前に積み重なっていく事実の深さと大きさの前で、日を追うごとに謙虚になっていかざるを得なかったのです。そこにくっきりと浮かび上がっていく命の重みや、言葉の手応えや、生きることの切なさみたいなものに、いちいち深く頭を下げざるを得なかったのです。教えられることが本当に多かった。  『アンダーグラウンド』(講談社)という作品の意味は、まず第一にそれが「綿密な第一次資料」になっているということだと考えています。  この事件に直接関わることになった人々の証言は、まとまったかたちで系統的に残されなくてはならなかったものです。この本が資料として、現在にいたるまで、あるいは後世にあって、具体的に何らかのかたちで有用性のようなものを持つことができたとしたら、僕としてはそれにまさる喜びはありません。

納得できない、いくつものこと

江川 紹子

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

事件発生は、テレビの報道で知った。  これは連中の仕業に違いない、と確信した。目黒公証役場事務長の假谷清志さんを拉致した事件で、警察やようやく強制捜査を行うことになったと聞いたばかりだったのに・・・。それより早く、機先を制するかのように、先に行動を起こしたのは連中のほうだった。  (警察が、もっと早くに動いていれば・・・)  歯がみしながら、テレビの画面をにらみつけたように思う。  実は、その年の初めにも連中、つまりオウム真理教に対する捜査が始まる、という情報はあった。前年秋に、教団の施設周辺の土壌から、サリン関連の化学物質が検出され、松本サリン事件との関連が強く疑われたためだ。しかし、阪神・淡路大震災が起き、全国から警察官が関西方面に動員されたために、強制捜査は先に延ばされた。地震の影響は仕方がない。けれども、假谷さんの事件では、警察はなぜ、すぐに教団に突入して被害者を救出しようとしないのかと、歯がゆかった。公道で行われた荒っぽい犯行であり、目撃者もいたのだ。  警察が早くに踏み込めば、假谷さんを助け出せたかもしれない。後からわかったことだが、假谷さんはしばらくの間、教団施設の中で生存しており、迅速な対応がなされていれば、殺されずにすんだのではないかと、本当に悔やまれる。それに、連中に地下鉄サリン事件の準備をする時間を与えることも、なかったはずだ。警察が決断を下すのに時間を要している間に、オウムは前代未聞の大がかりな無差別殺人を実行してしまった。そのことが、今でもたまらなく悔しい。  事件当日は、しばらくテレビを見たり電話で打ち合わせをしてから、自宅を出た。表通りに出ようと、最初の角を曲がったところで、妙な人の気配に気づいた。歩みを止めて振り返ってみると、背が高く、やせた若い男が、やはり慌てて立ち止まった。私が歩き出すと、男も歩き出す。男の姿を見て、オウムの信者に間違いないと確信した。服装や表情を含め、全身から彼ら特有のいわく言いがたい雰囲気が漂っていたのだ。  後をつけられるのは不愉快なので、男を先に行かせることにした。時間をかけて鞄の中の物を探すふりをしていると、男は仕方なくのろのろと歩き始め、私を追い越した。表通りに出ると、男は駅のほうに歩きかけ、困ったような顔をしてこちらを向いた。私は通りかかったタクシーを拾い、その場を去った。男が呆然とこちらを見ている様子が目に入った。  いったい男は、教団からどういう指令を受けていたのだろう。いささか気になったが、地下鉄事件の規模は、そんな私事など忘れてしまうほど大きかった。  そして事件から二日後、ようやく警察は教団に対する強制捜査を開始した。以後のことは報道されている通りなのだが、それにしても、こんなにも大きな被害が出るまで、なぜ警察は捜査をためらったのだろう。捜査の着手時期については、やはり今でも納得がいかない。  本当は、假谷さん事件の発生を待つまでもなかったのだ。1989年11月の坂本弁護士一家の事件での、意図的とも思える捜査の怠慢が本当に悔しい。なにしろ被害者の家族が警察に届けをしたのは、犯人たちが遺体を埋めに行ったまま教団施設に戻る以前だったのだ。その時期にまともな捜査を始めていれば、全く違う展開になっただろう。なのに警察は犯人の一人が教団を離脱し、遺体を埋めた場所を示す地図まで送ってきた後も、おざなりな捜索ですませてしまった。  その後も、オウムの違法行為はいくつも発覚している。まともに捜査を行ったのは熊本県警が摘発した国土法違反事件くらいで、後はむしろ問題を避けて通っているような対応が続いた。  地下鉄サリン事件の半年前、私の自宅が教団幹部らに襲われ、室内に毒ガスホスゲン(幸いなことにできそこないだったようだが)をまかれた事件でも、警察は残留物の採取さどの鑑識活動を全く行っていない。教団を批判している者の家が盗聴されたり、教団と長年戦って北雄武真理教被害者の会(当時)の会長が襲われた後も、警察は消極的だった。  その挙げ句に起きた地下鉄サリン事件。にもかかわらず、なぜ捜査に消極的だったか、警察は全く明らかにしようとしない。とりわけ坂本弁護士一家の事件では、現場の捜査員たちは刑事事件と判断し、積極的な捜査を展開しようとしていたのに、捜査責任者である警察幹部がそれにストップをかけた。なのにこの幹部はその後出世をし、リタイアした後もずっと沈黙を続けている。  地下鉄サリン事件以降、警察の捜査によって、教団の様々な事件が明らかになった。そのために尽力した捜査員の労苦は大いに評価したい。けれども、それで過去が帳消しになるわけではない。  もちろん、一番納得できないのは、事件の被害者とその家族だろう。

なぜ犯行を阻止できなかったのか

有田 芳生

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

鮮烈な記憶として身体の奥深くに記録される一日というものがある。移ろいゆく実時間にあって「あの日」はくっきりと切り取られたかのようにいまなお心のなかに刻印されている。事件現場の映像も自身の行動もただちに再生されるほど強烈な経験であった。それを強いたのが仮面を変え、いまなお厚顔にも活動を続けるオウム真理教の教祖と一部信者であった。  1995年3月20日。あの夜、わたしは池袋のバーにいた。カウンターに座る何人かの知人に「あれはオウムだよ」と伝えたところ、誰も信じなかった。そうだろう。いわく付きの教団とはいえ、まさか地下鉄にサリンをまくなどとは想像もできなかったろう。  それでも坂本堤弁護士の同僚やマスコミの一部は、オウムによる犯行だと直感的に判断してたはずだ。そして警察当局もまたそうであった。  前年秋には教団施設のある上九一色村近辺でサリン残留物質が検出されていた。松本サリン事件の教団関与を疑った警察庁は、監視体制を強めた。強制捜査の体制整備が行われたが、翌96年1月17日に阪神淡路大震災が発生。主力が削がれるなかで2月末には假谷清志さん拉致事件が起きた。犯人の指紋からオウム信者だったことが判明、再び強制捜査の準備が進められる。  しかし地下鉄サリン事件を許してしまった。  事件から10年後。わたしは当時の警視庁幹部と再開した。「いまだから言えること」を聞いて愕然とした。わたし個人を1日のべ50人!の公安部員が尾行した時期があるという。「どうして」と問うと「警備上の必要」だという。妻の買い物まで監視し、何を購入するかも調べたそうだ。「食材でアリさんが帰宅するかどうかを判断したんです」と言う。さらにこんな驚くことを語った。「池袋の事務所。きたなかったねえ」  管理人には断ったのだろうが、何度かわたしの部屋に入っていたのだ。そこにはオウム関連だけではないさまざまな資料や手紙などの私物が置いてあった。数年後、神保町の事務所に移るとき、押し入れのなかの段ボール箱から「あるもの」が消えていることに気付いた。「噂の真相」の編集者からもらったものの、見ることもせず放り込んでいた飯島愛さんの裏ビデオだった。「捜査上の必要」を理由に持ち去ったのだろうか。警察組織は必要とあらばここまでのことをする。ならば危険性の高まっていたオウム真理教を監視していないはずがない。  なぜ犯行を阻止することができなかったのか。もしかしたら犯行を黙認したのではないか・・・。わたしはいまでもそんな疑問をもっている。

10年を超えるオウム事件取材

瀬口 晴義

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

敗戦から50年を迎えた1995年、戦後日本を根本から揺るがす二つの出来事が続いて起きた。1月17日早朝、震度7の激震が阪神、淡路地方を襲った。神戸市内では壊滅的な被害となり、犠牲者は6434人に。その日の夕方、現地入りした私は、空襲後を想像させる長田地区での惨状が忘れられない。  神戸で一週間、取材した後、東京に戻り、土木や建築の専門家の取材をしていた3月20日、地下鉄サリン事件が起きた。その日の朝、震災関連の取材で都内にいた私は偶然、目に入ったテレビ映像を通じて、とんでもない事件事故が起きたことを直観した。  すぐにポケベルが鳴り、本社に呼び戻された。十年を超えるオウム事件の取材の始まりだった。教祖が逮捕された時は、モスクワで教団の「ロシアコネクション」を取材していた。95年秋からは裁判の取材が始まり、2006年9月15日の教祖の死刑確定記事まで書くことになった。  解脱や悟りを求めて出家した同世代の青年の素顔を知りたくなり、極刑判決などを受けた被告たちに手紙を出した。7人の被告と多くの書簡を交わし、接見も続けてきた。  正直に白状すると、記者として私は加害者には興味をもつことはあっても、被害者や遺族の取材に意欲を感じることは少なかった。新聞記者、特に社会部や支局の記者の仕事は、人の不幸が前提になる。職業的な「業」ともいえるが、取材経験を積めば積むほど、人の死に鈍感になる自分がいた。支局で毎日書いていた交通事故死者の名前は、私にとっては「記号」と同じだったと思う。  そんな私の固定観念が崩されたのは、「地下鉄サリン事件被害者の会」の代表世話人である高橋シズヱさんとの「犯罪被害者の話を聴く勉強会」だった。  2001年に体調を崩して仕事の負担が軽くなったこともあり、ほぼ毎回参加して、犯罪被害者や遺族の肉声に耳を傾けてきた。  かなり厳しい体験だった。遺族の多くが報道によって「二次被害」を受けていたことをあらためて思い知らされた。同業記者たちの遺族に対する心ない振る舞いを聞くと、私が「被告席」に立っているような気がした。 勉強会はまだ続いている。  参加者はあまり増えていないが、犯罪被害者と取材者が率直に語り合える場があること自体、大きな意味があると思っている。

犯罪被害者等基本法へ果たした役割

藤田 浩之

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

「犯罪被害者」という言葉は、地下鉄サリン事件が起きる前にもあった。事件の被害に対する給付制度もすでにできていた。ただ、この制度は通り魔などの被害者に受けた損害の費用を少しでも出してあげて、損害の一部を補てんするという性格のもので、いわば国からの「お見舞い」であった。労災の適応がある人など適応除外が多く、補償制度のはざまにある被害者を救いたいという趣旨のものであったと思う。貴重なことではあったが、「犯罪被害者」の権利をあまねく認め、救うというものではなかった。  しかし、地下鉄サリン事件が起きてから10余年、その間、なんの落ち度もなかった、地下鉄を狙ったテロ事件で肉親を失った多くの遺族と後遺症に苦しむ被害者が傷を負いながらも、しぼりだすようにその肉声で語り始めたとき、人々の前にはじめて、「犯罪被害者」がはっきりとその姿を現したと言えるのではないだろうか。個別の事件の被害者という枠を越えて、「犯罪被害者」として人々に認識されたということではなかったろうか。  地下鉄サリン事件はこれほどの悲しみを引き起こしたのです。明日、あなたの身にも起こるかもしれない。実際に起こっていてもおかしくはなかった。もちろん私にも。猛毒サリンの被害に、誰があってもおかしくはなかった。遺族と被害者の語る言葉によってそれがはっきりとした。  たしかに松本死刑囚は裁判で何ひとつ語らなかった、語ることができなかったかもしれないが、遺族と被害者の人たちの言葉によってこの事件が何だったのか、何をもたらしたのか、はっきりとわかった。つまり、「犯罪被害者」を社会全体で支えていくべきであるということだ。  先頭に立ったのは、高橋シズヱさんだった。いやおうなく立たされたということだったが、誰よりも適任だった。そしてシズヱさんとともに遺族、被害者が立ち上がり、被害の実情を訴えた。その声という声は、支援する弁護士をはじめ、多くの心ある人たちの心を動かしたと思う。ついには政府を動かし、犯罪被害者のための法律ができた。みなさんに心から敬意を表したいと思う。  今、日本全体が犯罪被害者のために動き出している。残念ながら都道府県によってレベルの差は小さくないが、これからが大切だと思う。

歴史を忘れた日本人

降幡 賢一

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

去年9月、松本智津夫(麻原彰晃)被告の死刑が確定して1週間後、私は生まれて初めての手術を受けて緊急入院した。大腸に穴があいて、腹膜炎を起こしたのだ。  以後約5ヶ月間、仕事を休むことになってしまったが、事件から11年間、「教祖」だけでなく信徒被告のほぼ全裁判、おそらく2000を超す法廷をひたすら傍聴してコラムに書いてきたそれまでの自分を思うと、ある種不思議な運命だったな、と思う。  事件のころ、私は新聞社の仕事のほかに、目の不自由な人たちのためにニュース解説をするボランティアの仕事をしていて、その日が私の録音の日だった。現場の一つが、新聞社近くの地下鉄日比谷線築地駅だったことから、速報に気付いた妹からの電話で事件を知ったが、その時点ではまだ「サリン」という名も明らかにされていなかった。しかし、東京都内何カ所かで同時に、なにか得体の知れないことが起きた、という不気味さは、ほとんど情報のないその時点では圧倒的だった。高田馬場の録音室で、もしこれが不特定多数の人々を無差別に傷つけるのを目的に行われた組織的なテロだとすれば、そのような集団を生んだ私たちの社会の荒廃はきわまった感じがする、とマイクに向かって話したことを覚えている。  裁判は、大事なことを私にいっぱい教えてくれた。世の中で一番大切な人を奪われた人々の涙は、私もまた似たような経験があるから身に詰まされたし、信じたものに実は裏切られていたと知った実行犯たちの悔悟の涙も痛ましかった。何よりも私をとらえて放さないのは、彼らが単にだまされていたというのではなくて、自ら進んで「教祖」に服従し、知恵を出しあって、一つの「軍事集団」を作り上げていたことだった。自分たちをこの世の「救済者」だと思い上がり、社会に向かって戦争を仕掛けていたその集団は、修行という名目で、互いに互いを監視し、密告しあう抑制社会だった。そこでは、人の命なんて、これっぽっちも尊重されはしなかった。  それは私に、この国の戦争の歴史を思い出させた。事件のちょうど半世紀前、灰燼に帰した中で、再びその歴史を繰り返すまいと決意したとき、人々が気づいた一番大切なものはなんだったか。そのことを、あの痛ましい青年たちは考えてみようともしていなかった。  歴史を忘れた日本人。そのショックは、今も私の中にうずいている。
本当に知りたかったこと
納得できない、いくつものこと
なぜ犯行を阻止できなかったのか
10年を超えるオウム事件取材
犯罪被害者等基本法へ果たした役割
歴史を忘れた日本人

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