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穏やかな海

手記(ご遺族・被害者)

テロ事件の被害者救済に向けての活動

高橋 シズヱ

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)「はじめに」より

地下鉄サリン事件からもう12年がたち、犠牲者の13回忌を迎えました。  12人が死亡し、5500人以上が受傷した、無差別大量殺人、テロ事件でした。営団地下鉄(現在東京メトロ)職員で霞ヶ関駅助役だった私の夫、高橋一正も被害者の一人です。  事件後間もなく地下鉄サリン被害対策弁護団が結成され、損害賠償訴訟の原告たちが集まって「地下鉄サリン事件被害者の会」もできました。  私は図らずも会の表となり、役目柄、民事提訴した損害賠償が実質的なものになるための活動をし、国内外を問わずメディア取材を受け、講演で各地を飛びまわりました。個人的には、連日のように刑事裁判を傍聴する生活を送ることになりました。  講演会場では、「大変だったでしょう」「まだ裁判終わらないの?」「体に気をつけてください」などと声を掛けられ、さらに「あの時、私はひとつ前の時間の電車だったので、助かりました」「子供の卒業式だったので出かけたけど、地下鉄が動いてなくて」「うちの主人も被害にあったんじゃないかと思って、会社に電話しましたよ」――あの時に何をしていたのかを語らない人がいないくらいでした。  みんなが同じように恐怖を味わったから、あの日の記憶が鮮明に残っているのかもしれません。  サリン散布という前例のない事件だったために、被害者の多くは、政府から何の手立ても講じられることはありませんでした。危機管理対策がなかったのですから無理からぬこともありますが、だからといって事後に置き去りにされたままで良いものではありません。 こんな言葉があります。  Our lives begin to end the day we become silent about things that matter.   ― Dr. Martin Luther King Jr. ―  「私たちの人生は、重要なことに口をつぐんだ日に終わりへと向かう」そんな意味の、キング牧師の名言です。被害者は、運が悪かったとか、もう少し早く出かけていればあの電車に乗ることはなかったとか、制度や法律がこうなっているのだから仕方がないと諦めて、被害にあった事を自分のなかに閉じ込め、口をつぐんではしまってはいけないと思います。  被害者は、サリンで命や身体機能を奪われ、精神的後遺症を与えられ、経済的損失を被ったのです。そして、それは12年経ったいまでも続いています。このことを言葉で、行動で伝えなければ、被害者の惨状は忘れ去られ、これからの危機管理や被害者にとってより良き環境作りのための何の教訓にもならなくなってしまいます。 しかし12年もたつと、被害者の声は小さくなってきます。今さらもう言えない状況を感じている被害者がいることも確かです。このままでは、被害者がどんどん社会から孤立していきます。   だったらもう一度「地下鉄サリン事件」を社会に戻してみたらどうかしら――そう思いました。  このたび、「私にとっての地下鉄サリン事件」というタイトルで、手記を募集したところ、たくさんの手記が送られてきました。さまざまな立場、それぞれの視点から、多くの方が地下鉄サリン事件の衝撃を甦らせてくださいました。  応募していただいた方々には、心からお礼を申し上げます。  そして、これまでの長い間、地下鉄サリン事件被害者の会の活動にご賛同いただき、ご寄付いただいた皆さま方に、厚くお礼申し上げます。  私たちがこうして活動を続けることができるのは、ひとえに皆さまの有形無形の篤いご支援とご理解があるからこそと、強く感じております。今後もテロ事件の被害者救済に向けて活動を続けてまいりますので、引き続きのご支援をたまわりますよう、お願い申し上げます。

地下鉄サリン『テロ』事件から30年を迎えて

高橋 シズヱ

2025年3月15日開催「事件から30年の集い」の講演より

今から5年前、2020年3月に、「事件から25年の集い」をする予定でしたが、新型コロナ感染拡大のために、2月末に中止にせざるを得ませんでした。 失望したら、そのまま活力までなくなってしまいました。 これからどうしたらいいんだろうと思って、2021年に上川法務大臣にお願いしたのは、国によるオウム真理教事件のアーカイブでした。 翌2022年にも古川法務大臣にお願いしました。 「要望したアーカイブは、どうなのかなぁ」と、期待がしぼみつつあった頃、自分で何かできないかと考え、何人かの友人知人に相談しました。 そうして出来上がったのが「30年の会」です。 ゴールを、事件から30年として、アーカイブの企画が動き出しました。 ところが、昨年、弁護団から「30年の集会をやりましょう」と言われ慌てました。 私は、いつもこの集会を1年がかりで準備していたからです。 間に合うか心配でした。 78才の私はインターネット音痴です。 その私に、アーカイブと集会が重くのしかかってきたので、老体にムチ打ちながらの日々でした。 30年の会のメンバーは、全員が本業のある人たちで、貴重な休日を提供してくれました。 本当に有りがたいことです。 公開する日を今日、2025年3月15日に決めて、猛ダッシュでした。 今日、お配りした桜色のカード、このQRコードから「地下鉄サリン『テロ』事件の記憶」というサイトに入れます。 が・・・未完成です、ご容赦ください。 カードにあるように、カラフルなシャボン玉が青天井に向かっていくように、サイトもこれから上昇気流に乗せていきたいと思っています。 時々訪問して、私たちの成長を見守ってください。 そして、法務大臣に要望していたアーカイブはどうなったか、と言いますと、皆さま既にご存知かと思いますが、公安調査庁の「オウム真理教問題デジタルアーカイブ」というサイトが2月21日に公開されました。 オウム事件を知らない人にもわかりやすくできています。 面白いようにどんどん深みにはまっていく、と言っていた人もいました。 どうして私が、公安調査庁の手先のようにデジタルアーカイブのお知らせをしているかというと、私たちのサイトである「地下鉄サリン『テロ』事件の記憶」と重なっていないからです。 もちろん被害者の部分は少し重なりますが、「地下鉄サリン『テロ』事件の記憶」は、被害者からの発信です。 どうか、皆さま、この2つのサイトから、オウム事件の「博士ちゃん」になってください。 私が、ここに行き着くまで、つまり30年間にどんな出来事があったのか、短い時間ですが、振り返って見ます。 いま私は、被害者の会で活動してきた年表を作っている最中です。 これはずいぶん前から始めたのですが、どうしてどうして、時間がかかること、この上ありません。 出来事を一つ書くたびに、鮮明にその場面を思い出して、その時の感情に浸ってしまうからです。 最初に出会ったのはメディアでした。 事件の日の夜、自宅マンションには大勢詰めかけていました。 「どうして私の家を知ったの?」という不信感から始まって、根掘り葉掘り聞かれた後の空虚な、話さなければ良かったという後悔。 そういうことがしばらく続いてから、やっと報道の力がわかるようになったのは、私の話に耳を傾けてくれる人々が、記者の後に見えてくるようになったからです。 私は、事件から5年後の2000年から「犯罪被害者の話を聴く勉強会」を始めました。 「やりたい」と言ったときに、手を差し伸べてくれたのが、当時朝日新聞の記者だった河原理子さんです。 その勉強会の途中で出版した「犯罪被害者が報道を変える」という本は、日本の放送人基礎研修のときに、教材として、今も使われています。 先日受けた取材では、ディレクターの方に「私たち2人とも高橋さんの研修を受けたんですよ」と言われました。 こういう時に、年月の経過を感じます。 次に出会ったのは、弁護士の先生方でした。 1989年に坂本堤弁護士がいなくなってから、日本全国を探し回っていた弁護士の中の、先生方が地下鉄サリン事件の被害者の弁護団を結成して、私たち被害者と遺族は損害賠償請求訴訟を起こすことになりました。 相談会が1ヶ月に一回おこなわれ、最初の何回かは、入口で身分証明書を出しました。 それほどオウム真理教には警戒していたし、私も恐れていました。 民事裁判は5分で終わると説明がありましたが、民事の法廷に井上嘉浩(元死刑囚)、広瀬健一(元死刑囚)が被告として出廷して、直接被告たちの話を聞くことができました。 2000年3月に15人の被告全員に勝訴しましたが、賠償金は1円も受け取っていません。 その日の記者会見で、中村裕二弁護士から、「民事裁判の意味」、というお話しがありました。 1 被害者の救済:保全処分によりオウムの資産隠匿を予防 2 真相の究明 3 刑事裁判との関係および影響 4 被害者の会の発足、国や自治体への要請活動をおこなうことによって、国や自治体が債権放棄をしました。オウム新法の成立にもなりました。 5 犯罪被害者の人権への意識喚起 6 民事裁判の書証と刑事記録の活用 この中村先生の話を聴いて、目的はお金だけじゃないってわかっていましたけど、こういう深い意味があったのかと思いました。 特に最後の民事裁判の書証と刑事記録の活用というのは、保存も含めて、現在にも通じる国民の要望で、今は、江川紹子さんたちが中心になって研究会などがおこなわれているところです。 私がよく質問されることは、「高橋さんて、明るいんですね」とか、「どうしてそんなに強いんですか」とか、です。 「明るい」というのは、多分「脳天気」ということだと思います。 「強い」というのは、どうでしょう。 きっとそのようにみえたのだと思いますが、やっぱり夫を失った怒りが外に向いていたのでしょうか。 でも、最近つくづく思うのは、もっと強い思いを持っている弁護団に引かれるからだと思います。 私は、直接坂本弁護士を存じませんが、坂本弁護士の志が弁護団に乗り移っているのではないかと思うときがあります。 これまで、オウム真理教事件の被害者のための法律が4つもできました。 その法律のおかげで、いまはオウムの後継団体が押さえつけられている状態で、私たちは安全が守られているのです。 風化、風化、とよく言われます。 私は、面と向かって言われますが、「だから何?」と反発したくなります。 人々の記憶は薄れるでしょう、忘れるでしょう。 でも私たち被害者と、被害者の代理人である弁護団は、現在もオウム真理教の後継団体と闘っている最中です。 風化して危険が及ぶ可能性は、事件を知らない、あるいは忘れてしまった人、関心のない人にあるのです。 「風化といわれているけど、どう思いますか?」と、風化がいかにも私たち被害者にあるかのような言われ方をするのは心外です。 私たち被害者は、サリンの後遺症の苦しみと闘いながら、そして被害者の代理人である弁護団も、風化を防ぐために、できる限りのことは尽くしているのです。 つい最近、朝6時半に電話がかかってきました。 飛び起きて電話に出ると、泣き声が聞こえました。 「申し訳ありませんでした」と、「ありがとうございました」と、それだけで、あとは泣き声だけです。 じつは、その日の未明に私が出演したNHKの番組「視点・論点」が放送されたのです。 私には、「申し訳ありませんでした」と「ありがとうございました」だけで、どういうことか、わかりました。 私も涙があふれて、お互いに電話を切ることができませんでした。 その人は、オウム真理教に出家してしまった息子さんを命がけで取り戻し、その後、ご自身もオウムに殺されそうになってかろうじて命を取り留めた人でした。 オウムに入ってしまった信者の家族も、事件の被害者も、30年経っても涙がかわくことはないのです。 オウム真理教に入信したり、出家したりした人たちは、人類救済とか、修行して超能力を身につけたいなど、善意で麻原を信じてしまいました。 ただ、出家すると外部と遮断され麻原の考えている価値観だけに拘束されて、果ては死刑になるような犯罪者です。 坂本堤弁護士は、「人を不幸にする自由はない」、とおっしゃったそうですが、オウム真理教に関わった人はみんな不幸になりました。 その不幸は、30年経っても消し去ることはできません。 みなさん、 どんなことがきっかけでオウムに入ってしまうのか、それはあなたにも起こり得ることです。今日は、 オウム真理教が犯してきた数々の殺人、殺人未遂事件、そしてテロ事件について、江川紹子さんと西田公昭さんにお話しいただきました。 しっかり聞いてくださった人は、カルトに入ることはないと確信しています。 もし、家族や友だちなどに、いつもと違う様子が見られたら、心配してあげられる存在になっていただきたいと思っています。

被害にあった報道人として

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

あのとき、1995年3月20日午前8時15分ごろ、私は新聞記者として警視庁の記者クラブにいました。救急車のサイレンが鳴り響き、東京消防庁に電話をかけると、「同時爆破の可能性」と聞き、近くの地下鉄霞ヶ関駅に駆け下りました。  構内は人気がなく静まりかえり、丸ノ内線ホームに着くと、目を赤くした駅員がハンカチで口をおおっていました。鼻でかいでも、においがしません。止まっていた電車の中に入ろうとすると警察官に制止されました。「なんでみんな苦しんでいるのだろう」と不思議に思っているうちに私も気管支が狭くなった感じがして、深く呼吸しないと息ができないようになりました。  状況を会社に報告するため地上に戻ると、顔を蒼白にして口から泡をこぼして倒れている鑑識課員と、彼を介抱する人の姿が見えました。「ご無事で」と祈りながら記者クラブに戻りました。  警視庁が「サリン」と発表したのは、その2時間45分後でした。上司に病院に行くよう指示され、病院では衣服類を焼却するよう言われました。診断の結果は、のどの炎症。2日後に再度来るようにと言われたのですが、その日に警視庁によるオウム真理教への強制捜査が始まりました。休みのない取材が続き、通院することはできませんでした。  捜査員が被害の聴取に来たのは4カ月後。状況を聞き取っただけのように思います。サリン事件の起訴状には被害者名が載っているのですが、私の名前はありませんでした。軽度の症状だからしょうがないのかとも思いましたが、どういう線引きがあったのか今もわかりません。  事件の1年後、今度はオウム裁判の担当となり、信者の法廷を連日傍聴するとともに、遺族の方や負傷した人にもお話をうかがい、癒やされぬ心の傷の深さを思い知らされました。「なぜ、この事件が起きたのかを知りたい」という被害者の願いが届きそうにもない首謀者の松本智津夫被告の態度を何十回も見ていて、やるせなさが募るばかりでした。  今、私は兵庫県内の支局に勤めています。サリン事件の2カ月前、6434人が死亡した阪神淡路大震災の被災地です。サリン事件が起き、被災地の報道がすっと消えました。「私たちは見放されたのです」と恨みに近い気持ちをもつ被災者が今もいます。あの時以後もメディアを含めて震災に関心を持ち続けていれば、防災対策も進んだという声は根強いのです。

被害者としてできること

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

1995年3月20日、多くの命が不当な理由に基づいて奪われました。また、多くの被害者を生み出し、その中にはいまだに肉体的、精神的、金銭的苦痛を余儀なくされている方がいることを多くの人は知りません。私自身も被害者でありながら、この事実を長い間知らずにおりました。  あの朝私は、高校の終業式に参加するためにいつもより若干遅い時間に家を出ました。同じ系列の中学に通う妹の「待って、お姉ちゃん」という声を背に「あんた待ってると遅刻するから先に行く~」と言い残して足早に家を出ました。私はこのことを深く後悔させられ、自分を責めることになりました。仲御徒町駅から日比谷線に乗り込みました。いつもと変わらぬ、終業式で成績表のことが気になったりする以外は、ごく普通の1日でした。異変が起こったのは、神谷町駅です。「築地駅でガス漏れがあったので、しばらくお待ちください」。後からわかったことですが、この時すでに私の妹は築地駅で倒れる寸前だったのです。日比谷線はその後、運転を取りやめました。何も知らない私は、別の路線・手段で学校に到着しました。そこで置いてきてしまった妹が、病院に運ばれて厳しい状態にあることを知らされました。同時に、自分の体調にも異変が起こりつつあることがわかりました。私は神谷町駅でガスを吸引していたようです。  幸い妹は数日、私は7日程度の入院で日常生活に戻ることができましたが、この事件は多くの影響を生活にもたらしました。地下鉄に乗れない、家で一人になれない、悪夢にうなされる、など17歳の私には予測できないことが次々と起こり、誰にも話すこともできずにいました。  私は今29歳になり、社会人として働き、両親からも独立し、家族ともよい関係を持ちながら普通に生活して います。しかしあの事件で命を奪われた方、いまだに回復できずに苦しむ方と自分が、どれだけ紙一重であったかを考えずにはいられません。10代、20代前半は、実は被害者の会の方とお話することが若干苦痛でした。今ある自分を責める気持ちにならざるをえませんでした。しかし、今では、「自分が被害者としてできることがあるはず」と考えて、会の活動のお手伝いをさせていただくこともあり、また会の方と交流を持つことを少しずつではありますがさせていただいています。被害者だから理解できることがあります。話をして痛みを体のシステムから吐き出すというのは、自分の経験から見てもとても大事なことだと思います。  あの事件は多くの命を奪い、また多くの人を傷つけ、多くの被害者ご遺族を生み出しました。このことから学ぶことが本当に多くあります。明日はわが身であることを、多くの人は考えません。また、被害者や遺族にスポットがあたることも、多くはありません。この手記を通じて一人でも多くの方があの日のことを思い出し、加害者ではなく、被害者や遺族についての理解を深め、そして事件について思い出してくれることを願います。また私自身はこれから、被害者としてできることを微力ながら行動に移したいと考えています。

松本サリン事件被害者の遺族として

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

大変なことになっているという母の電話でテレビをつけました。サイレンの音が鳴り響き、たくさんの人が路上に倒れ、痙攣している人、苦しげにうずくまり、吐いたりハンカチで目を押さえている人々が映っていました。数カ所の地下鉄構内で異臭が立ちこめているというアナウンサーの説明を聞いているうちに、オウムがサリンをまいたのではないかと思いました。  9カ月前の1994年6月28日未明、私の息子は松本で原因不明のガスで亡くなりました。19才でした。犯人のわからぬまま翌年1995年1月1日読売新聞の一面でオウムがサリンを作ったことを知りました。犯人のわからぬまま、半年間は気が狂いそうな時間でしたので、心底うれしく、すぐにでも逮捕してほしいと思いました。  松本でサリンがまかれたときも息子達はこんな状態で亡くなっていったのではないかと思いました。それまでは誰にも助けてもらえず、どれほど苦しんだのかと想像するだけでしたが、画面を見ているうちに急にお棺の中の苦しそうな顔まで思い出しました。突然の恐怖の中で自分が死んだことさえわからなかったのではないかと思い、私はパニックになりました。  地下鉄サリン事件は松本サリン事件が教訓になりませんでした。地方都市で起き、内閣がかわったため政府もそれどころではなかったでしょう。二度と再び起きてはいけない犯罪でした。早く逮捕しておけば地下鉄サリン事件は防げたのに、この責任は誰がとるのだろうかと思いました。5月16日麻原逮捕の様子が一日中テレビに流れました。サリンを製造したおぞましいサティアンなど、ここまで大きな組織が法の目をくぐっていけたのが不思議でした。事件の被害者になるとこの国のいろいろなことが見えてきます。  10年の長い裁判の末、テロと断定され、麻原や実行犯達に死刑判決が下りました。当然の結果でしたが心は晴れないのです。  死刑になっても亡くなった人は誰も私たちのところへ帰ってきません。松本サリン事件から13年という長い時間がたって事件は風化していきます。でも遺族にとって納得できる死などなく、過ぎた時間の長さも計れずにいます。くじけそうになる気持ちを何度も何度も組み直してここまできました。 私の息子が生きていたら32歳です。どんな青年になっていたでしょうか。当然あると思っていた同じ時間を持てなかった母は、心の底から悔しく思っています。

同じ被害者として語りつぎたい

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

私がこの事件に遭遇した“あの日”は、通勤時、築地駅に向かう日比谷線秋葉原駅を通過した後でした。列車は小伝馬町駅手前で突然緊急停止し、車掌からの第一報は「八丁堀駅で爆発事故があった」(その後、築地と訂正)とのことでした。数分後に発車しましたが小伝馬町駅で運転打切りになりました。  ホームに降りるといつもと様子が違いました。奇声をあげてもみあっている男性、今までに嗅いだことのない匂い、倒れている女性を介抱している人たち、そして、新聞紙に包まれて置かれている濡れた荷物。改札を抜け地上に上がり、何が起きているのか、どうすればいいのか考えている最中、周りの人たちが急にバタバタと倒れはじめ、口からは泡を出していました。私の目の前でも30代のスーツ姿の男性が倒れましたが、どうして良いのかわからず声をかけるばかりでした。数分後パトカーが到着しました。しかし、救急車は来ません。仕方なく数人で、現場を通りかかった一般車両を止めて協力を求めました。容体の悪い人を優先に車に乗せ、私もその男性の介抱のため同乗しました。パトカー先導のもと、5台の車に分乗し病院まで搬送するはずでしたが、私の乗った車は最後尾だったため、赤信号ではぐれてしまいました。近辺の病院がどこにあるかわからず焦っていましたが、通りかかった救急車の後を追い、文京区千駄木の日本医科大病院に着くことができました。刑事さんに事情説明をしたあと、会社に向かいました。途中、築地駅横を抜け、状況を見て驚きました。東京じゅうの緊急車両が集まってきたかのような光景で、ことの重大さを知りましたが、何が起こったのかわからないまま会社に着きました。  いつものエレベーターに乗りましたが何か違う感じがしました。「エレベーターの中、暗くない?」と同僚に尋ねたが「暗くないよ」との返答。念のため診療所に行き検査を受けたところ瞳孔が縮んでいるとのことで、原因不明のまま点滴を受けました。治療中、テレビの臨時ニュースで何があったのかわかりました。私も被害者だったのです。入院の手配をしましたが、この状況下ベットの空きはなく、やむを得ず同僚に自宅まで送ってもらい、再度近くの病院で点滴を受けました。その後数日で容体は回復し、以前と変わらずに日々を過ごせるようになりました。  あの日、ホームで倒れていた人、私の周りで次々倒れていった人たち、一般車で搬送された男性がどうしているのかがわからず、この時期が来るたび気になります。  亡くなられた方々のご冥福、後遺症がある方々の回復を心から祈り、同じ被害者として、これからも決して忘れ去られないよう、そして二度と起こらぬように、語りついでいこいうと思います。
テロ事件の被害者救済に向けの活動
被害にあった報道人として
被害者としてできること
松本サリン事件被害者の遺族として
同じ被害者として語りつぎたい

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