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穏やかな海

手記(事件に思いを寄せる人々)

「その朝」の総理官邸

村山 富市

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

大分の自宅に地下鉄サリン事件被害者の会代表、高橋シズヱさんからお手紙をいただきました。今年はあの衝撃的な事件から12年目になる、それはご遺族に取って十三回忌にあたり、この日をとくに回想の日として「地下鉄サリン事件から12年目の集い」を企画しているとのお話でした。  あれからもう12年もたったのかという思いとともに、大切なご家族を失った方や、いまなお後遺症に苦しんでおられる多くの被害者の方達が過ごされた、悲しみや無念の思いの歳月を思うと、あの許し難い行為にあらためて憤りを覚えました。  地下鉄サリン事件は私にとっても忘れがたい出来事でした。  1995年3月20日朝、未曾有の大事件が総理官邸に知らされたのは、ほとんど事件直後でありました。官邸のすぐ近くの霞ヶ関駅を中心に、営団地下鉄3路線の5車輛で起こった、毒物バラまき事件で、多数の被害者が出ているというショッキングな第一報でした。私は記者団に「何の関係もない一般市民を無差別に殺傷するなど断じて許すことができない」と怒りにふるえながら語ったことを覚えております。官邸への情報は相次ぎ、10時には原因物質サリンも特定され、詳しい周辺事情も明らかになってきました。  私は関係閣僚と協議を重ね、被害者救助の徹底と、事件の続発に対する警戒の強化に全力をあげるよう指示しました。しばらくはサリンの恐怖が全国を覆い、真偽のはっきりしない情報が飛び交いました。國松警察庁長官の狙撃事件や、都知事宛小包爆弾の事件など異様な事件が続き、本当に緊張を強いられる日々でした。  その後、サリンの製造や所持を禁止する緊急立法を行い、宗教法人を隠れみのとした反社会的集団を取り締まるために、宗教法人法を改正しました。  しかし、なぜこのような無差別テロを引き起こしたのかという根本的な疑問は、首謀者がいまなお何も語らず、闇の中です。被害者は刑事事件裁判と民事裁判の損害賠償問題の狭間でその不条理に二重の苦しみを感じておられることと思います。  被害者にとっては、どんな救済も十分ということはないというのが実情でありましょう。犯罪被害者給付金制度も2001年に大幅改正がなされましたが、専門家による心のケアについてはまだ十分とは言えません。最近は、またかと思われる凶悪事件が多発し、心を傷めておりますが、日本でも犯罪被害者を支援する団体が各地に作られ、相互のネットワークもできつつあると聞いております。こうした方々の活動で被害者の苦しみが少しでも軽減されることを願っております。  またサリン事件を風化させず、一般市民を殺傷するようなテロ行為が二度と起こされることのない、平和な国日本を国中で考えるため、「サリン事件12年目の集い」に賛同致します。これを機にさらに被害者救済の環境が整うことを願い、関係者の皆さまお体に留意され、少しでも早く平安の日が来ることを心から祈っております。

不条理な犯罪の時代

國松 孝次

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

地下鉄サリン事件は、私が36年の警察官人生のなかで遭遇した、最も衝撃的な事件である。その10日後に起きた警察庁長官狙撃事件は、私自身が被害者であっただけに、深刻な思いがあるが、事件そのものから受けた衝撃は、地下鉄サリン事件のほうが、はるかに大きい。当日、事件の発生を最初に聞いたのは、登庁途中の車の中である。第一報の段階では、「地下鉄車内で爆発物」とのことだったが、それは、すぐに「毒ガスらしい」と変わり、霞が関の執務室に着いたころには、「毒ガスはサリンの可能性」としぼられてきた。  そして、その日のかなり早い段階で、事件は、オウム真理教団が目前に迫っていた警察捜査の攪乱を狙って敢行した無差別大量殺人であるという判断がついた。  そう判断された時、私の胸中には、激しい怒りの念とともに、どんな犯罪も、それなりの理由があって起こってくるという時代が変わり、理屈も何も何もない全く不条理な犯罪が起こってくる時代がやってくる、今、自分は、そういう時代の転換点に立っているという、名状しがたい緊迫感がわきあがったことを、今でも覚えている。その時の私の感覚が、それほど、一時的で的外れのものではなかったことは、その後、現在までの犯罪情勢の推移が示しているように思う。犯罪は、かつてなく、被害者にとって、不条理な形で、起こるようになってきている。  今、犯罪被害者等基本法の成立を受けて、犯罪被害者への各種支援のレベルアップが検討されているが、そこでの検討は、こうした犯罪態様の変質を十分に踏まえて行わなければならない。 理不尽な犯罪の典型である地下鉄サリン事件のような大量無差別のテロ犯罪が起こった場合の被害者救済をどうするか。この問題は、現在、犯罪被害者等に対する「経済的支援に関する検討会」のなかで検討されている。 各国の例をみると、たとえば、イギリスでは、ロンドン爆破テロが起こった時、被害者を救済する慈善基金が直ちに設立された。今のところ、日本には、こうした措置が取られるシステムはない。しかし、国際的な規模で敢行される無差別テロ事件の発生が現実味を帯びるなか、その被害者の救済が、人後に落ちるものであってはならないと思う。

事件にあう、あわないは自分で選べない

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

その日、当時の郵政省に助成金を申請するため会計担当者とともに行く予定でした。千代田線に乗りましたが霞ヶ関駅には停まらないと言われ、「なんだろう」と思いつつ、霞ヶ関駅を通過するときにホームに目をこらしたところ、駅員の方々が何か処理しているのが見えました。国会議事堂駅で地上に出ると、救急車のサイレンは鳴っている、ヘリコプターが旋回している、地下鉄の駅の出口に人が並んで寝かされている、何か大変なことが起きているのだと思いつつ郵政省に急ぎました。会計担当者はロビーで大型テレビに映し出される模様を見ていました。  夕方の報道で、自分がどんな事件に巻き込まれずにすんだのかを知りました。千代田線の霞ヶ関駅で死者が出たことも知りました。自宅を出るのが遅れなければ、自分も5500人のうちの一人となったでしょう。誰でも被害にあう可能性はあるのです。事件にあうか、あわないか、自分で選ぶことはできないのです。亡くなった人、その後遺症で苦しむ人、職務であるために忠実に処理に励み命を失った人、治療に当たった人、介護をした人、そしてその家族、友人などを考えると、それが自分でなかったことはたまたまであったと思います。そして事件にたまたま遭遇してしまったばかりにどれだけ多くの方々が苦しみ、涙をながされたかと思い心が痛みます。  この事件については奇妙なことがいくつかありました。一つは郵政省の帰り、東横線で同じボックス席に座った70代の女性二人が興奮して「オウムの仕業だ」と言うのです。事件からまだ数時間しかたっていなかったにもかかわらず、どうやって知ったのでしょう?  また、事件後しばらくして帰りの電車の中で、「警察から、事件のとき着ていたものはすべて焼却するように言われたけど、カバンをはじめ、もったいないからまだつかっているよ」という中年のサラリーマンの発言を聞いたことです。家族、周辺の人々に対する二次被害のことは考えなかったのでしょうか?そのような人が大勢でなかったことを祈ります。  12年前、郵政省に申請した助成金はモニタリングするためのものでした。このプロジェクトは1994年から10年続きましたが、あのときの子供たちは無事に成長したのでしょうか?アフガニスタンには新政権が誕生したにもかかわらず相変わらず不安定です。  日本はどうでしょうか?オウムは名前を変えて存在し、いまだに帰依しているような人々がいること自体が日本の不安定さを象徴しているように思います。  事件後、渋谷の交差点を渡ることができませんでした。いまも広い交差点は避けます。直接被害におあいになった人たちのことを考えると、自分が普通の生活を送っていることが不思議です。

犠牲者や遺族の無念さは、はかり知れない

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

その朝、職場に遅刻の電話連絡が相次いだ。会社はフレックスタイム制なので出社の早い者は仕事に取り掛かっていたが、都心を経由してくる遅出の社員から遅刻の連絡が入り始めたのだ。  朝のラッシュ時に交通機関が乱れたのだろうと大して気にも留めなかったが、次第に職場がざわめき出し、休憩コーナーにあるテレビの周りに人が集まり始めた。  ある地下鉄の入口付近に多くのパトカーや救急車が集まり、大きな事故が発生したことは映像からうかがえた。報道陣のトーンも上がり、尋常でないことはわかったが、サリンが散布されたとは知るよしもなかった。そもそも当時はサリンという言葉さえ知らなかった。  私がこの様子からとっさに思いついたのは、大手町に勤務する義弟の安否であった。  すぐ自宅に電話を入れ、無事であることを確認した。当時、携帯電話は形も大きく、ごく一部の人だけ持っていたので、駅周辺の公衆電話の前は人だかりであった。  会社は品川だけでも数千人の従業員がいるが、犠牲者は出なかった。もし身内や社員から犠牲者が出ていたらこの事件に対する意識の持ち方は変わっていたかもしれない。しかし、そのためどこか距離感があったことも正直のところ否定できない。驚愕の大惨事だったのだが・・・。  強く印象に残ったのは信州大学の医師が「松本サリン事件と症状が酷似している」と、いち早く都内の救急病院に対処法を連絡した機敏な行動と、聖路加国際病院日野原重明院長の英断であった。自分ならどう判断し、どう行動しただろうかと改めて考えさせられる。  後にオウムの犯罪であることが判明したが、身辺にオウムに関わる者もいないし、私とは無縁の集団と思っていたが、たまたま私の義弟がサリン散布を実行した林郁夫の配偶者と中学で同級であったこと、報道関係者が当時の彼女の写真や作文を提供してくれないかと義弟の自宅まで来たことを聞き、どこにつながりがあるかわからないものだと感じた。  そのうえ事件後12年もたつ今頃になって、私の住まいの近くにサリン製造者土谷正実の育った実家があること、事件後、家族が大変な生活を強いられたことを知人から聞いた。その話をした知人にしても私にしても、やはりこの事件が記憶から消え去ることもなければ話題に上らなくなることもない。もちろん、犠牲者や遺族の無念さにははかり知れないものがあるに違いない。よりによってなぜ自分のところにこんな災難が・・・と。

看護師としてできること

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

当時私は、都内にある某大学病院の救命救急センターの看護師だった。あの日は夕方からの勤務なので、ゆっくり寝ているつもりだった。しかし、事件を知り心配した母からの電話で飛び起きることになった。この大都市東京で、今起きている大きな出来事に、ただ恐怖を覚えた。  早めに勤務先に行くとやはり多忙を極めており、それは深夜まで続いた。収容されたある被害者の方は意識がなく、人工呼吸器装着を余儀なくされていた。御家族は、何が何だかわからない様子で、泣きじゃくっていた。警察官は出入りを繰り返し、被害者を搬送して来た救急隊員は、中毒症状が出現し、そのまま入院となっていた。  もうろうとした意識の中で、うなされる別の被害者。そんな中でも行われた警察官からの「不審な人物を見たでしょうか?」の問いに対し、うなずくような動作。さらに質問を続けようと必死な警察官。「今はそんな状態ではないでしょう!」と止めに入る医師。そんな情景を目の当たりにして、起きていることの重大さを改めて感じた。ちなみに真相は違っていたようだ。その被害者の方は、いつもどおりの通勤電車の中で、いつもどおりに本を読むために下を向いていた。だから不審者を見ることもなく、急に騒々しくなった車内に気づくと同時に気分が悪くなったのだという。いつもどおりに過ごしていただけだったのに・・・・・。  事件から2、3日しかたっていない頃だったと記憶している。サリンに解毒効果のある“パム”という薬が大量に入荷した。それまで数個しかストックしていなかった薬が、である。それらを薬品庫に収納する瞬間、私は“身震いする”という経験を初めてした。「この薬がたくさん使われることがまたあったらどうなってしまうのだろう。自分が、家族が、友人が、多くの何の罪もない人々が被害者になるなんて考えたくもない。私は冷静に仕事を全うすることができるのだろうか」などといろいろな思いが頭をよぎり、本当に手が震えたのを今も鮮明に覚えている。  あれから12年たった今、私は地元で看護学校の教員をしている。あの事件のことを「知っているけれど、詳しいことは知らない」という学生達が年々増えている。いつどこでまた同じような事件が起きないとも限らない。そんなときに看護師は、どうすべきなのだろうか?適切な対応をするために専門的な知識や技術、冷静な判断力が必要なのは容易に推測できる。そして何よりも突然事件に巻き込まれ、苦しみや悲しみを味わうことになってしまった被害者やその御家族の気持ちを、推し量ろうとすることが大切なのだと心から思う。  被害者の方々やその御遺族の本当の苦しみや悲しみは、申し訳ないけれど、私にはわからない。けれど、私のできることは若い世代にあの日あの時、見たことや感じたことをありのまま伝え続けることだと思う。事件を風化させないために・・・・・。

生かされている自分を感じた

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

あの日、1995年の3月20日は、忘れられない一日です。今でも、鮮明に記憶しています。  あの時は仕事で、3月15日に上京して20日まで東京に居ることになったのです。17日までにほとんど仕事はすんでいましたので、20日は8時前にチェックアウトして、地下鉄に乗ろうと思っていました。ところが当日の朝、「どうせ銀行は9時からしか開かないからもう少し、部屋に居よう」と8時30分頃ホテルを出て、地下鉄の秋葉原駅に行きました。入口に駅員さんが二人立っていました。「何か、日比谷の方で事故があったらしくて電車動いてないんですよ」と言うのです。「しょうがないな」とJRの方へ行きかけると、私の横をパトカーが「ウー」とサイレンをけたたましく鳴らしてフルスピードで走り抜けていきます。駅の前の大きな道路は、救急車が「ピーポ、ピーポ」とサイレンを鳴らして行きかいます。何があったんだろうと思いながら、JRで浅草橋駅まで行きました。銀行へ行ってテレビを見たら、なんと私がいつも降りる小伝馬町駅が写し出されていました。タンカで運ばれる人、うずくまっている人、横たわっている人、すさまじい光景でした。  もう30分早く予定通りチェックアウトしていたら、限りなくあの電車に近づいていたかもしれない、もしかしたら私もあの倒れている人の中にいたかもしれない。ショックでした。  なぜ、私みたいな青森の片田舎の人間が、この最中に居るんだ?そして、まさに寸止めされたんだ?生かされている自分を感じました。こんな大都会のド真ん中でこんな事件が起きる。まさに「只今臨終にあり」だ。自分のなすべきことは、全てやり切っておかなければと思いました。  亡くなられた方々は、一家の大黒柱、前途有為な青年男女だったと思います。、前の晩は、一家で食卓を囲み色々なことをなごやかに語り合ったと思います。  また後遺症にお苦しみの方々も、人生を狂わされたと思います。被害にあわれた方々には本当にお慰めの言葉もありません。  私自身は、あの日以降の人生は余生だと思っております。精一杯、自分の能力の限りを尽くし、自分の商売を通じて、従業員の人達の生活を守り、お取引先、お客様のご期待にお応えする。そして、つたない私の話にお耳をかたむけてくださる方々にお話させていただく。そのことが、サリン事件のような忌まわしい事件が二度と起こらない世の中をつくっていくことに本当に微力でありますが、お役に立っていくと信じております。また、私みたいに寸止めされた者の責務を思っております。

母親として子供に伝えたいこと

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

地下鉄サリン事件の起こった年の2月初め、私は長男を出産しました。当時兵庫県の宝塚市に住んでいましたが、1月の初めから実家で里帰り出産をするために東京に帰っていました。主人も仕事が休みで、宝塚から私の実家に泊まりがけで来ていた1月17日、あの阪神淡路大震災が起こりました。普段目にしていた景色がすさまじい惨状となってテレビに映っています。主人は急いで東京から宝塚に帰りました。テレビが部屋の隅から隅まで吹き飛んで、食器はほぼ全滅・・・本棚は重なりあって倒れ、重いピアノまで移動して・・・そんな家の中を主人は一生懸命片付けてくれて、電気温水器の修理ができてお湯が出るようになった3月初めに私は宝塚に帰りました。傾いたビル、池にはまった家、ぐしゃっとつぶれた神社・・・生後一ヶ月の長男を抱いて車から見える景色に言葉をなくしました。でも、何があってもこの子を育てていかなきゃ・・・わたしがこの子を守らなきゃ・・・そんなふうに思って、息子を抱きしめる腕に力が入ったのを覚えています。  主人と3人での生活が始まって10日ほどたった3月20日、おっぱいをあげようとソファに座って何気なくテレビをつけました。すると、道路にブルーシートが敷かれて、たくさんの人がうずくまって、救急車が行き交う映像が目に飛び込んできました。地下鉄サリン事件でした。「なんて恐ろしいことが起こったんだろう・・・」そう思いながら、おっぱいをあげ、その後も気になってしまってなかなかテレビを消すことができませんでした。  翌日は結婚一周年の記念日でした。ささやかに3人で祝いました。テレビでは地下鉄サリン事件のことが繰り返し報道され、奥様のお腹に赤ちゃんがいらっしゃる会社員の方が犠牲になられたということを知りました。出産したばかりだったこともあったと思いますが、亡くなられた方の無念、ご家族の悲しみを思うといたたまれなくなりました。なんて辛いことなんだろう・・・また長男を抱きしめる腕に力が入りました。  その時の長男は今12歳になりました。地下鉄サリン事件の映像が流れる3月になると、毎年「あなたにおっぱいをあげながら、お母さんはこの映像を見ていたのよ・・・」と話してきました。その後、年子で生まれた長女、そして昨年、10年ぶりに赤ちゃんを授かりました。  今年の3月20日は犠牲になられた方、そして遺族の皆さまに思いを馳ながら、この次男におっぱいを飲ませるでしょう。そして家族で真摯に事件を振りかえり、心から祈りたいと思います。あの時お腹にいた赤ちゃん、そして赤ちゃんのお母さんをはじめ、ご家族の皆さまはお元気でしょうか?私にとって決して忘れることのできない3月20日です。そしてこれからも大切に子どもたちを育てていきたいと思います。

トンボの群れのようなヘリコプター

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

もう12年にもなったのですか、私にはつい先日のようにも思えるのですが。  1995年3月20日の朝、私は家内と一緒に、銀座1丁目にある宿舎から東京駅に向かっていました。はとバスの乗場がある東京駅へ行くのです。  実は17日には仙台を出発し、上野精養軒での昼食、皇居内外の半周、新築直後の都庁めぐり、3日間がはとバスの観光でしたので、この日は最後の日程だったのです。 東京駅のはとバス乗場には(おのぼりさんは万が一を考え余裕をみるので)早目についていたはずです。しかし、この朝、バスはなかなか到着しませんでした。車庫は築地のほうにあるということでした。当時は携帯電話も、まだあまり使われていなかったのです。  かなり遅れ、来るには来たのですが、車掌さんは遅れたおわびを言いながらもその理由はなくて、「なんか、今朝は大変だったんですよ」と言っていました。  バスが最初に行ったのは皇居の二重橋前、ここで記念写真を撮るのです。  撮影用のベンチに腰をかけようとしたときでした。私は、はるか無効の低空に、何機ものヘリコプターを目にしました。ちょうど、トンボの群れのようでした。  「あれ、何でしょうね?」  私はそばの人に声をかけましたが、そちらもおのぼりさんなので、埒があきません。  「東京ではいつもあんなに飛行機が飛び交っているんですか?」  車掌さんも、「さあ?」と言ったきりでした。  やがて都内の観光を終えた私たちは、仙台へ帰るJR車中の人となりました。  そして網棚に捨てられたままの新聞に手を伸ばし、見出しに驚きました。  これが、私たちと事件との遭遇の始まりでした。  家内の甥は勤務先が日比谷なので、出勤時間がちょっとずれれば大変な目にあうところだったと聞いて、ぞっとしたのは大分あとのことです。

終業式の日の出来事

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

今日の丸ノ内線の車内は、ガランとしていて、人がまばらだった。1月とはいえ暖かく、ほとんどの人がコートの前を開けていた。数日前に、21年間勤めた職場に、退職願を出した私は、3月までの残りわずかな日々を思っていた。さっきは誰も座っていなかった長いすに、女性が座っている。顔を見ると、どこかで見覚えがある。「誰だっけ・・」思い出せない。時々、芸能人が乗っているのを見たことがあった。「あ、思い出した!」亡くなった霞ヶ関駅助役の奥さん、高橋シズヱさんだった。事件当時なら、すぐにわかっただろう。しかし、もう12年近くたっていて、すっかり記憶が薄れていた。走馬灯のように、当時のことが思い出された。  あの日は、私が勤める私立の中学高等学校では、終業式だった。高校1年の副担任だった私は、9時ごろに学校に着くつもりで、地下鉄八丁堀駅改札までやってくると、シャッターが閉まっている。車両故障だろうと、職場に電話を入れることにした。地下鉄改札に公衆電話があって、かけると話中でつながらない。何回かけても同じだった。多くの地下鉄の路線が集中する赤坂にある我が校では、他に行くルートがあった。JR京葉線に乗って東京駅で乗り換え、丸の内線のホームに行くと、程なく電車が来た。銀座駅に着くと、車内アナウンスがあった。次の霞ヶ関駅では停車しないこと、窓を閉め、離れているようにとのこと。再び走り出すと、今度はぐんぐんスピードを上げ、霞ヶ関駅を通過するときには、最高潮に達した。  赤坂見附駅につき、学校へ走りこんだ。高校職員室へ入ると、電話がじゃんじゃんかかっている。もう一人の副担任の先生から、「無事だったのね」と声をかけられた。「何があったんですか?」と聞いたら、「なんだかわからないけど、地下鉄が大変なことになってるらしいのよ」と答えてくれた。校長先生の机の脇には、テレビが置かれ、ニュースが流れていた。  どうも、うちの生徒が2人、病院に搬送されたらしいと連絡が入ってきた。私が所属する学年だった。一人は聖路加国際病院、もう一人は慶応病院の集中治療室に入っているとのこと。「どうなっちゃうんだろう」心臓がどきどきしてきた。あわただしい中、終業式が終わった。  昼過ぎに生徒を帰したが、私の乗る丸ノ内線はまだ復旧していなかった。JR四ツ谷駅まで歩くことにした。赤坂見附交差点・迎賓館・上智大学脇と、春の日差しの中、数人の先生たちと歩いた。桜の花が満開で、地下で起こった出来事が、うそのように平和だった。今、こうして歩いているこの下で、人が死んだことが信じられなかった。夢であってほしかった。  あとで思ったことだが、丸ノ内・千代田・銀座・半蔵門・有楽町の5線が通る赤坂にあり、中高生合わせて1500人近く在籍するわが校で、被害にあった生徒が2人しかいなかったのは、奇跡に近いことではないだろうか。  4月から新学期が始まり、巻き込まれた2人のうち1人はまだ出てこられなかったが、5月の修学旅行には参加できそうだった。出てきた生徒の制服もかばんも、ぴかぴかだった。聞くと、被害にあったときに着ていた服や持ち物は、すべて、警察が持っていったそうだ。  修学旅行先で、重症だった1人が、おいしい食事をいただくたびに言った言葉が、今でも忘れられない。「生きててよかったなぁ」私もそう思った。  丸ノ内線の車内で、いろいろなことが思い出されてきた。何とか、高橋シズヱさんに声をかけて励ましてあげたかった。ただ、声をかけると迷惑かもしれない。私が降りる東京駅が近づいてくる。仕方なく、降りる準備をしてドアの前に立ったら、なんとシズヱさんも席を立った。東京駅の階段付近は、乗り込む人とで入り乱れていた。「今だ!今なら!」と、向きを変え、声をかけた。「すみません」・・・シズヱさんは、怪訝そうな顔をしたが、私が続けて、「あの事件のことは忘れていません、がんばってください」と言うと、うれしそうににっこり笑って、「ありがとう」と言ってくださった。私は急に恥ずかしくなって、階段を駆け登った。  実は、私はうそを言ってしまった。忘れてないのではなく、シズヱさんに会ったから、思い出したのである。本当は忘れていたのだ。しかし、励ましたかった。  いま、地下鉄サリン事件やオウム真理教の話をしても、知らない生徒がほとんどである。無理もない、14~15歳の生徒たちは、まだ小さかっただろう。やがて、事件のときには生まれてもいない子供が増えてくるだろう。オウム真理教は、アーレフという名前に変えて宗教活動を続けているが、事件後も入信する人がいるという。もしかすると、私が担任している子供たちが入ってしまうかもしれない。誰かが、繰り返し、語り継いでいかなければ、事件は風化してしまう。当時、事件を目の当たりにした私でさえ、シズヱさんの顔を、すぐに思い出せなかったのだ。  事件を風化させず、このようなことが再び起きないように、活字に残しておきたかった。  最後に、亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、終わりたい。

ロンドンより

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

私がサリン事件を知ったのはロンドンでした。階下に住んでいる友人から電話があり、日本で大変なことが起きたらしい、テレビを見てごらんなさいという一報でした。つい数ヶ月前に同じ友人に、神戸という所で大きな地震が起きたらしいと教えられたことを思い出しました。  そして、テレビを付けた私が見たものは懐かしい日本の様子ではありませんでした。何が起きたのか、どうしたのかボーッと長い間テレビを見ていたように憶えています。サリンというガスが人為的にまかれたこと・・・。その後、どのように事件の内容を知ったのか、よく憶えていません。イギリスのメディアはカルト集団というところを注目していたように覚えています。  しかし、私は事件を知らせてくれた友人の嘆きを見て驚きました。彼女は毒ガスというところに強く怒りを感じていました。「こんなことを考える人間がまだいるのか、ナチスも同じものを作っていた、私たちがサリンで殺されていたかもしれない。日本は地震も起きるし、こんなに恐ろしいことを考えるカルトもいるならもう帰らないほうが良いわよ」とひどく興奮していました。  彼女はユダヤ人で家族はもう誰もいませんでした。いつも自身の境遇や戦争の悲惨さを語る時、それはもう思いのありったけを込めて語ります。  私たちはどうでしょうか。12年がたちましたが、あんなに熱く語っているでしょうか。亡くなった方がいることを、立派に職務を果たした方のことを、体の自由を奪われた方のことを、大切な家族を失った方のことを、深く傷ついている人たちのことを、恐ろしい考えを実行した団体があることを、もう二度と起きてはならないことを。語ることはたくさんあるはずです。  私たちはもっと怒って、忘れないように、一生懸命に話し、伝えていかなくてはいけません。

身近に感じる未曾有の大惨事

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

12年前のあの日、私はお茶当番のため、通常より30分以上早い電車に乗って越谷の自宅から、八丁堀の勤務先に向かった。順調に行けば8時20分には着くよう、いつもと同じ一番後ろの車両に乗り込み、車掌室越しに流れ行く景色を眺めていた。  日比谷線直通の東武電車は順調に地下に入り、いつもと変わらない乗り降りを繰り返し、八丁堀駅の2つ手前の駅、人形町駅に到着した。人の乗り降りが終わり、さてドアを閉めて出発・・・のはずが一向にドアが閉まる気配がない。他の乗客も不思議に思ったのだろう、段々と車内が騒がしくなり始めた頃、目の前の車掌室から、こんな司令室からの声が聞こえてきた。  「八丁堀駅で爆発があった模様。待機してください」  車掌室に近いあたりに乗っていた乗客にもこのアナウンスはよく聞こえたようで、幾人かの乗客が降りていった。それを追うように車内に同内容の正式なアナウンスが流れ、他の車両からも乗客たちがパラパラと降り始めた。  当時、人身事故などで地下鉄が停まることが多かったのだが、大抵はさして時間がかからず再開していたため、この時も「爆発した」とはいえいつものように意外に早く回復するのではないか、と思った乗客も多いようで空いた席に座ったり、同僚らしい人と「待ち」を決める相談をしている人もいた。私も様子見を決め、車内に残った。  すぐ目の前のホームでは、駅員に復旧の見通しを聞いている複数の人がいた。しかし駅員にも皆目見当がつかない、というより何が起こっているのか状況がつかめない様子で、「その後の情報は入ってきていません。しばらくお待ちください」と繰り返しているだけだった。  その様子を数分ほど眺めているうち、私も電車を降りて2駅歩くことを決めた。ともかく社に電話して事情を話してから歩いていくか、と考え改札に向かった。幸いその日は天気がよく、歩くには気持ちよい気候だった。しかし歩き始めてしばらくたっても公衆電話は見つからない。  そのうちどこからともなくサイレンのけたたましい音が街中に響き渡り、どうもただごとでない何かが起きているようだ、まさかさっきの爆発事故?想像以上の惨状なのだろうか?電車を降りる選択は正しかったかも、そんなことを感じ始めた。近所の散歩を日課にしているのか、幾人かのご老人とすれ違ったが同じように朝から鳴り響くサイレンの音に不安げな様子だった。  ようやく空いた電話ボックスを見つけた。歩いている間に会社より先に自宅に電話することに決めていた。いつもなら母と会話をしてそれで終わり。でも、この日ばかりは自分でも予想外に硬い声で父を電話口に頼んだ。 「いま地下鉄で大変なことになっているの。詳細はまだよくわからないけれど、どうも八丁堀で爆発事故が起こったって。それにしてはサイレンがスゴイよ。私は人形町で足止めだったから、いま八丁堀まで歩いているところ。とにかく先に知らせておくね」  実を言うと、私の父は当時の営団地下鉄の職員だった。この日はたまたま休みで家に居たのだ。いずれ会社からも要請があるだろうが少しでも早くこの状況を伝えよう、そう思った。普段はあまり会話もなく、そう仲のよい親子でもないが父の真面目な勤務態度は私なりに尊敬していた。だからこその選択であった。あとで母に聞いた話によると、父は私からの電話ののちすぐに支度を始め、出かける寸前にやはり会社から出社要請があったそうだ。  私は私で道に迷いつつもなんとか30分程度でオフィスに着いた。着いて間もなく始業の9時を迎えたが、オフィスは閑散としていた。時間がたち、他の地下鉄利用者が出社してくるうちにテレビの中継を見て改めてことの重大さを知り、心底恐ろしく、また怒りを覚えた。  その後、この惨事で父と同じ地下鉄職員の方が亡くなったことを知った。同じ市内の方の死も知った。私より若い女性も亡くなった。亡くなった方々のことを直接知っている訳ではない。父にしても職場の仲間であっても特段親しかった訳ではなかったそうだ。でも、亡くなったのは私かも、父かもしれない。  実際に直接的な被害ではなく、あくまで間接的なものではあったけどそれでも亡くなった方の怒り・悲しみ・悔しさを身近に感じる。  いまだに何故あんなことが起きなければならなかったのか、理解できない。  その前に起きた松本サリン事件も、父の出身が松本で、幼い頃から何度も訪れた地であっただけに、この事件と併せてさらに身近に感じる。  これだけ自分に身近だと感じる未曾有の大惨事。月並みではあるが、この先こんな事件が起きないことを祈り、そして被害にあわれた方々の冥福と回復を心から祈るばかりである。

たまたま「その日」は乗らなかっただけ

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

私はあの頃、東京に住む大学生でした。自宅が千代田線の千駄木、アルバイト先が中目黒にあり、ちょうど春休みの時期だったので、朝10時から始まるアルバイトに行く毎日でした。そのときの乗り換えは、霞ヶ関駅です。  しかし、「その日」から九州に旅行に出かける予定で、アルバイト先には行きませんでした。朝遅く起きて、旅行の準備をして、出かける旨を実家の母に伝えようと電話をすると、母が、大丈夫か、と心配していました。私は朝からテレビも新聞も見ておらず、何が起こっているのかをまったく知らずにいたので、母が何を心配しているのか、何が起こっているのか、全くわかりませんでした。その時には、地下鉄で爆発事故があったらしい、という情報があったようで、母がしきりに心配をしています。とりあえずは無事だよ、これから旅行に行ってくるよ、と伝えて電話を切り、新幹線に乗って九州へ出発しました。  その後、テレビのニュースなどで徐々に事件の全容が明らかになるにつれて、私は背筋が凍る思いをしました。前の日まで、毎日アルバイトに行くのに乗っていた、ちょうどその路線で、ちょうどその時間に、事件が起こっていたのです。たまたまその日は乗らなかっただけで、前の日には乗っていた地下鉄なのです。  私が、今、こうして生きていて、この手記を書いているのも、偶然以外の何物でもないんだと、心から思います。そして、事件のことを風化させず、伝えていくことが、運よく難を逃れられた私の使命だと、強く思います。

東京都知事選とサリン事件

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

「安心こそ、最大の福祉」「東京が変われば、日本が変わる」拡声器を通して声高に遊説をしていた、まさにその時、未曾有の地下鉄サリン事件がおきていました。東京都知事選挙を目前にした、前哨戦中の出来事でした。  このときの東京都選挙管理委員会による選挙ポスターのキャッチコピーは『4月9日(日)とうきょう日和・・・』うんぬんというものでした。立候補予定者のスローガンも含め、これらのキャッチフレーズの数々は、どれほど空虚に、無神経に響いていたことでしょう。常にTPOを考え、時事問題や地元地域に根差した問題に精通し敏感でありたい、そして具体的な処方箋をもって政策を訴えていきたい、というのが私のポリシーだったのです。  ところがこの日、たまたま給油に立ち寄った新宿のガソリンスタンドの、テレビニュースの中継放送を見て、初めて非常時を知ったのです。しかし程なく私たちウグイス嬢3人とドライバーは、一体何が起きているのか知る由もなく、タイムテーブルに沿ってすぐに次の目的地へ向かわなければなりません。一旦事務所を出発すると、そこは狭小な車中、井の中の蛙であることに気づかされたのでした。  詳細がわからないまでも、事態がただごとではないと感じていました。そしてその後は、何より話す言葉を失っていました。もはやどのような声も届かない、と思えたのです。そう思いながら・・・絞り出すように空しく遊説を続けていたことを記憶しています。  思い起こせば「今日はやけに救急車が多いね!」とてい談をしていました。この日は何度となくスピーチが中断していたのです。救急自動車のサイレンの音をかき消してしまうことのないように、宣伝カーのマイクを切るからです。  皆がテレビに釘付けだったのでしょう。時間の経過に伴い、街中は異様な静寂に包まれていました。  世紀末の閉塞感に、死中に活を求めたのでしょうか。そうして誕生したのが、瞠目の故青島都知事だったのです。  耳慣れない「ヴァジラヤーナ」と称する教義や「グル」などに踊らされ、オウム真理教を筆舌に尽くし難い無差別テロへと走らせた狂気、悪逆無道ぶりは、大きな衝撃や憂国の情と共に、今も心に深く刻印されています。  被害にあわれた方々には、謹んで哀悼の意を表します。

他人事ではない

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

「何だかヘリコプターがずいぶん飛んでるみたいだね」不穏な音が響いていた。私は6カ月の娘を連れ、前日から実家に泊まっていた。地下鉄八丁堀駅から徒歩5分の距離だ。  近くに店があまりないので、母は日常の買い物も3駅先の銀座ですることが多く、その日もそのつもりだった。母は地下鉄はやめて歩いて行くことにすると言った。  間もなく原因が毒ガスらしいとの情報が入った。私は子供が心配になった。そのガスはここまで漂って来たりしないだろうか。同じ場所で父が経営していた会社の社員も何人か聖路加国際病院に行ったと聞いた。事件のことがわかるにつれ恐怖に包まれていった。当初私の夫も一緒に泊まり、八丁堀駅から出勤する予定だったのだ。  何かが少し違っていたら母や夫が・・・と思うと他人事ではない。あれから毎年その日が来るたび、私の頭にはあの不穏なヘリコプターの音が甦る。

海外調査チームとともに

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

私にとってのサリン事件は、ほかの方々とはやや異なる立場からの記憶である。もちろん、何があのような悲惨な事件を引き起こしたのか、という分析も重要であるが、ここでは、私の個人的なサリン事件とのかかわりを述べたいと思う。  日本のみならず、世界を震撼させたサリン事件が起こった数日後、駆け出し通訳者だった私に、大ベテランの先輩通訳者から声がかかった。「ある国から、今回のサリン事件について調査団がやってくるそうです。その通訳の仕事、自分は予定が入っていてできないので、代わりにやりませんか」とのこと。  私は化学や医学などの専門家ではないため、自分にできるだろうか?と心配ではあったが、思い切って引き受けることにした。海外の調査チームがやってくるまでの10日間は、まるで受験勉強さながら、サリンにかかわるありとあらゆる日本語・英語の資料を探し、勉強し、単語帳をつくった。最終的に、新しく覚えるべき単語は600語にのぼり、収集した日本語・英語の資料は分厚いファイル1冊となった。  海外調査チームは、医学の専門家や化学の専門家、軍事や兵器の専門家から構成されていた。3日間にわたる調査チームの同行通訳は、それぞれの分野に沿って、サリン事件をたどる旅となった。まさに事件が起こった地下鉄の駅を訪ね、当時の様子を駅長さんや駅員さんから聴き取りをする。被害者が運び込まれた病院を訪れ、担当の医師団と医学的な情報交換および議論を行う。防衛関係の専門家と会い、化学兵器の見地から今回の事件の意味合いを学ぶ。  無我夢中の3日間が過ぎていった。あの3日間はいま思い起こしても、会議場の同時通訳ブースからガラス越しに通訳するのとは全く異なる経験だった。それは極めて専門性の高い複数の分野の通訳という大変さのためではなく、まさに多くの人々の命や人生に触れる仕事であることをひしひしと感じたためである。 海外の専門家チームは、事件の被害者に対して深い哀悼と配慮の念を抱いて調査に当たっていた。そして、この事件が不幸にも多くの人々にもたらした深い影響にどのように対応するかを真剣に考えていることが伝わってきた。  世界では、サリンなどを用いた化学兵器が開発・使用されている。自国や世界の人々がそのような危険な化学兵器にさらされたとき、もしくはさらされる可能性があるとき、どのような対応をし、その命を守ることができるかを研究するための専門家チームであった。  サリン事件は、多くの被害者とその家族に深い傷跡を残した事件であった。同時に、他国から、日本で起こってしまったこの事件の苦しみを無駄にせずに、同様な事件の被害者の苦しみを少しでも減らそう、できれば防ごうとするためのチームが日本を訪れていた。   いまでも地下鉄や病院での説明に真剣に耳を傾ける背の高い口髭の専門家たちの姿を思い出す。あの調査で得られた知見を必ずや世界のために生かしてくれているであろうことを、私は信じている。

自分にできることから始めたい

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

あの朝は京浜急行で都営三田線に乗り継ぎ、神田神保町にある編集制作会社に直行した。校正紙を受け取り、昼前に勤務先に着いてから事件を知った。テレビのニュース番組が拡大されて、おびただしい数の人たちが路上にうずくまる様子を上空から撮影していた。  地下鉄で自分も被害にあっていたかもしれない、とは全然思わなかった。冷静に考えれば、その可能性はあった。けれども、あのときは刊行物の制作で忙殺されていた。低予算だから外部に仕事を頼めない。足りない手は自分で補う。終電の後も残業をしたり、週末出勤が続いた。職場に出入りしている印刷会社の人が通勤途中で被害にあい、目の後遺症に悩まされていることを知ったのもだいぶたってからだった。事件は自分とは別世界のことだった。  それが変わったのは2000年のことだ。外国の報道機関に通訳・翻訳者として転職後、サリン事件の5年後を伝えるため、入院中の若い女性に取材した。サリンの重い後遺症でうまく発音できない女性の言葉を40代のお兄さんが聞き取り、それを自分が英語に通訳した。土曜日の午後、ひと気の少ない病院の薄暗い待合室で1時間以上も話を聞いた。  女性は退屈な入院生活の気晴らしのようにリラックスして話をしてくれた。お兄さんは疲れた様子だった。仕事以外の時間は妹の看病にほとんど使っているという。自分が年をとって体が弱ってきたら、妹の世話を誰がするのか。それを考えると、眠れなくなると言っていた。そのお兄さんとは年齢が近かったせいか、話を聞いているうちに自分の胸も重くなってきた。  別の日には、「被害者の会」の方に会って話を聞いた。ごく普通の女性が、辛いはずの体験を普通の言葉で淡々と話すのを聞いているうちに鼻がツンとしてきた。近所の人から話を聞いているような錯覚をしたのかもしれない。サリン事件は世界中に伝えられたほど衝撃的なニュースだった。オウム教団の奇異な言動や容姿を伝える報道が続いたが、被害にあったのは自分と同じごく普通の人たちであることを忘れたくない。  普通の人同士が支え合うために、まず自分にできることから何か始めたい。最近、散歩の途中で公園のごみ拾いを妻と始めた。

日本人として心の支援を

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

1995年3月20日月曜日、いつもは7時35分に出る夫が、月曜日に行われる、定例の早朝会議に出席のため、6時半に自宅を出た。私はいつものように日比谷線の最寄り駅まで夫を送り、その後7時40分に娘をJRの最寄り駅まで送った。この日、私は銀座に出かける予定だった。天気が良いので出かける前に、あれこれと用をすますべく市内を車で走っていた。車中でのラジオで地下鉄のあちこちの駅で原因不明の事故が発生とのニュース。救急車、パトカーのサイレンの音がラジオから聞こえてきた。でも、その時はそのうちに収まるだろうと軽く考えていた。  帰宅してテレビをつけてみて初めて「なにやら大変なことが起こったようだ」ということに気づいた。銀座行きどころではない。あちこちの駅での惨事が伝えられ、嫁いだ長女夫婦のことが気になり、娘の職場に無事の確認をし、ホッとしたものだ。  その夜、夫は10時過ぎに都内からタクシーで帰宅した。  連日、事件に関する報道がなされ、多くの死傷者が出たこの事件は、オウム真理教が起こした犯罪だということ。国家転覆を図ったテロであること。その他、坂本弁護士一家殺害事件や松本サリン事件など、この集団の犯罪の怖ろしさに身震いした。  事件直後は、地下鉄駅構内の厳重な警戒やその駅を通るたびに、報道だけでしか知らない、当時の惨事を想像して怖ろしかったが、それも月日の経過と共に関心も薄れ忘れかけていった。  数年後、私は健康維持のために市内のスポーツサークルに通い始めた。そこに、地下鉄サリン事件にあわれた方が2人おられた。一人は「パム」という解毒剤の使用で九死に一生を得た方だった。その方に折に触れ事件のその後をうかがい、もどかしい思いをしている。  国際的にはテロ集団の犯罪とみなされ海外からは大変関心をもたれ、色々な団体が調査に来ているのに、日本では、松本智津夫個人の犯罪のように扱われているように思う。  被害者に対する国の援助や補償は具体的にはまだまだとのこと。被害者は心身ともにどれほどの苦痛をうけたか・・・今でも、突然、身の置きどころのない痛みや苦しみが全身を襲い、治療などなす術もなく、ただじっと時間のたつのを待つだけの後遺症に苦しむことがあると聞き、私にははかりしれないほど大変なことだと思う。  国は特措法などにより、早く何とかしてあげられないのだろうか。本当にもどかしい。  被害者の方々、知人のK氏、Y氏を初め、テレビでしか知りえない高橋シズヱさん、松本サリン事件の河野義行さんなど、皆さんが冷静沈着にことに当たっているのには感服するだけだ。  これまでの12年で、松本智津夫の死刑は確定したようだが、この先どれほどの時間を要するのか?決着というゴールはまだ見えない。私たちは日本人として、いや人間として決して忘れず、せめて心の支援は続けていかなくてはいけないと思う。  被害者の皆さんが気力と体力を維持して、一致団結して1日も早く目的を達成されることを願ってやみません。

フランスより

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

サリン事件の直後、フランス在住の私は痛ましい思いで故国のニュースの行方を追った。日本という国が、そうした「テロ行為」の前にいかに脆弱な存在であるか、ヨーロッパ大陸に暮らしているがゆえにひしひしと感じるのだ。イラクやイスラエルのような国ならともかく、フランスでテロが日常だとは言わない。だが、人々はテロの危険と隣合わせで暮らしている。テロ指数が高くなったりすると、私は朝、パリ地方最大の郊外線を使う夫を送り出す時、このまま帰ってこないこともあり得るよね、と胸の内でひそかにつぶやく。  フランスには異なる民族がごっちゃになって暮らしているし、外交・政治面でも市民レベルでも、ほかの民族と、とことん関わり合っている。ということは恨まれる機会も多いわけで、テロ行為がいつも通る街角で起こったということは、滞在20余年の間に、一度や二度ではなかった。  もちろん、サリン事件を巡る事情はフランスの事情とは異なる。でも、「テロリスト」を育む土壌は、宗教や文化のちがいが引き起こす摩擦だったり、差別だったり、社会での生きにくさだったりする。根本のところでは共通するものがある。他民族国家フランスは、こうした闘いにある意味では慣れている。だから、被害者を事件直後に支援する体勢は相当しっかりしている。長期に渡る補償を得るには、それでもやはりかなりのエネルギーが必要だ。だが、そうした闘いが正当であることを、社会全体が認めている。その点はいかにも心強い。  話は飛ぶが、2003年、有名女優のマリ・トランティニョンが人気歌手の恋人に殴り殺され、DV被害事件として派手にマスコミをにぎわせた。だいぶしばらくたって、被害者の父親で、名優のジャン=ルイ・トランティニョンがどこかのインタビューで淡々と語っていた。一言で言えば、私の身に起こったことは、よくあることなんだ、という意味内容だった。つまり、これほど悲惨な事件も、この社会のあちこち、世界のあちこちで起こっていることで、決して自分の不幸だけが特別なわけではない、というのだ。私はノックアウトされた気分だった。  誤解しないでいただきたい。だから大したことではないというのではない。まったくその逆だ。これほどの苦しみの中でも、人はほかの人につながることができる。苦しみの果てに、煉獄を抜け出し、とてつもない包容力を獲得することができる。それは、人間の隠し持つ無限の力、叡智なのであろうか。  「なぜ私が?」という呻きが、「それでも私は生きてゆく」に変わり、いつの日か、「だから私は生きてゆく」に昇華する。死者も、そうした力の中にこそ生きつづけるのだと、私は心から思う。

あの日あのとき・・・そして今思う

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

平成7年3月20日、あの日私は仕事で、長田の町で車を走らせていました。ひどい渋滞の中、ラジオをつけると地下鉄サリン事件のニュースが耳に飛び込んできました。やがて犠牲者や重傷者が多く出たことが伝えられ、ラジオに釘付けになったことは今でもはっきり覚えています。   私の住む神戸では事件の約2カ月前、1月17日に阪神淡路大震災が発生し、長田の町は焼け野原となりました。そこは多くの死傷者が出た所で、その時はまだ悲惨な状態のままで、交通網もマヒした状態でした。地震直後、犠牲者の遺体が路上のいたるところに寝かされていた光景もいまだに目に焼き付いたままです。私自身も自宅マンションが半壊の被害を受けました。突然の大きな揺れ、まさか未曾有の大地震に遭遇するとは考えたこともありませんでした。  それから淡々と神戸の町並みは復興し、サリン事件も麻原の逮捕から大きく動き、自分自身の中では事件はすでに過去の記憶になりつつあった平成13年7月21日、明石市民まつりの花火大会で「群衆雪崩」に巻き込まれ、当時2才11ヶ月の二男が犠牲となりました。その瞬間から「遺族」として扱われるようになり、前日までの幸せの日々が一変しました。「まさか」、でもつらい現実でした。遺族になってから本当の意味で人の痛みがわかるようになりました。事故後の交流を通じて事件・事故・災害、形は変わっても、大切な家族を突然失った思いは全く同じだとわかりました。私たちが大きな組織を相手に今も頑張れるのは、多くの遺族のご支援があったからこそと、感謝でいっぱいです。それとは裏腹に、今の社会は決して私たちのような被害者にとってやさしいものではない、ということも痛感させられました。私たちは、民事裁判、刑事裁判、検察審査会の審査で、過去の事件や事故のご遺族の様々な活動の恩恵を受け、大きな後押しをいただくことができました。  しかし私たち遺族、いや過去にも多くの遺族や被害者が望んできた「真相解明」を困難にさせる壁が多く立ちはだかっているのが現状です。  きちんと真相を明らかにすることは、事件・事故の再発防止にとって不可欠です。遺族が以前の生活に少しでも早く戻り、癒やされるような社会を実現するべきです。いつどこで、だれが事件や事故に遭遇するかわからないのです。社会全体が関心をもって考えていただきたいのです。  地下鉄サリン事件で亡くなられた方、そしていまだに苦しみ続ける被害者のことをけっして忘れません。そして、少しでもやさし社会に変える制度やシステムを構築するため私たちも生涯かけて活動し続けていきます。

あの朝、10分、15分早く家を出ていたら

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

あの悲惨極まりない事件が発生した当時は、東横線大倉山駅から7時40分頃の上り電車に乗り、8時10分頃中目黒駅で日比谷線に乗り換え、六本木駅までが私の通勤経路であった。  当時の茨城県相馬郡守屋町にあったシステム研究所で、新システム稼働に向けて、前年から準備を進めていた。正月明けの稼働開始から3カ月。事件前々日の土曜、日曜には、システム研究所を引き払い、運送業者と共に六本木の本社に大量の荷物の引っ越しを終えていた。  翌月曜日は、雑然と置かれたロッカーや大量の荷物の整理、後から出社してくる社員に指示を出すために、少し早めに出勤しようと思い、前夜は眠りについた。  だが、休日出勤の疲れから、当日はなかなか起き出すことができずに、どうにか支度を整えて電車に乗ったのは、いつもの7時40分頃。多摩川を渡る鉄橋から川面に映る朝日がまぶしく、疲れ切った体で吊革につかまりながら電車は中目黒駅に到着。いつものように乗り換えた満員の日比谷線電車が恵比寿駅に到着したものの、なかなか発車しない。車内アナウンスは「火災が発生したため」と記憶しているが時間は刻々と過ぎていき、会社のことが気掛かりで早く会社に行かなければと焦るばかり・・・。「当分、発車を見合わせる」とのアナウンスに改札を出て、六本木方向へ歩き始め、何とかタクシーに乗車。救急車や消防車がサイレンを鳴らしながら行き交い、タクシーの運転手も「どこかの駅で火事が起きたとか、爆弾が爆発したとか・・・」ラジオでも情報が交錯しているらしい。会社に着くと、フロアのテレビが築地駅の現場を放映し、電話が間をおかずに鳴り響いている。そこで初めて、もの凄い事件が起きていると実感した。電話は、約120人の職員の家族がテレビ等で事件を知り、家族や子供の安否を気遣うものだった。私の家族は、私からの「テレビをつけて見ろ。自分は無事だから・・・」で、事件を知ったらしい、そして、故郷にいる母や兄弟にも。母は後日、「無事で良かったねぇ」と電話の先で涙ぐみ、父の墓前に手を合わせたらしい。あの朝、10分、15分早く家を出ていたら、日比谷線六本木駅を利用する私は、先頭車両に乗り合わせ、事件の被害者になっていたかも、と思うと身の毛がよだつ。あの年は、母の誕生日に阪神淡路大震災が発生したり、私にとっても暗く、忘れられない一年である。

通勤途中の小伝馬町にて

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

12年前サラリーマン現役であった私は、日比谷線で通勤していた。3月20日突然、小伝馬町駅にて停車、車内放送により「築地駅で爆発事故により停車します」。しばらく待ったが動く様子もないため一番前の車両に乗っていた私はホームに降りた。3本目の太い柱に差し掛かったとき、急にドーンとホームが暗くなった(100ワット電球の明るさが10ワット位に落ちた感じだった)。俺も年を取って目が悪くなったのかと感じた(サリンを被った瞬間であった)。  早く会社に遅れる旨の連絡をと公衆電話へ行くも行列ができていた。仕方なく地下道を渡り、5~6人で階段を上がり、地上へ出た。その日は快晴であったのだろうが暗く感じた。歩いているうち、両手の指先より、ピリピリ、ピリピリとしびれを感じた。8時45分前に会社に着くなり同僚より「目が真っ赤ですよ」と言われ、トイレで見るとかなり充血していた(持参していた目薬を差した)。友人に「しびれは両手の指だよ」と話すと、おかしいと言われた。  その日は終日、転任の同僚を、関連会社へ同行訪問する日であった。訪問先にて、昔一緒の友人と談話中、「今日の事故はすごかった。死亡した人もいるみたい。日比谷線とか都内の地下鉄で・・・」などと話を聞くうちに、私の乗った電車も関係があるかもしれないと、ホームでの出来事などが頭に浮かんだ。夕方5時過ぎに会社に戻り、「朝、奥様から『主人は会社に出勤していますか?』と電話があった」と聞かされ、社内の大部分の人に自宅より確認の電話があった。余談ではあるが中でも確認の無かったH役員は帰宅後奥さんとトラブったとの話を思い出す。  帰宅後ニュースを見ていた妻に「お父さん、病院に行ったほうが良いよ」と言われ、鏡を見ると瞳がマン丸くなっていた。サリンは水に溶けやすいとの話ですぐにシャワーを浴びた。翌日より札幌出張等により1週間が過ぎ、病院には行かずじまい。妻が当日に着ていたコート、背広を焼却したほうがいいと聞き、処分したのを覚えている(買って間がないため残念だった)。  その後、私の体調は明るい外より室内に入ると、置物が暗くて見えづらい。目がチカチカしてボウーとする。昨年、目にゴミがある感じがしたので、眼科に診察に行き、「今、目薬を付けましたか?何か薬を飲みましたか?」と聞かれ「いいえ」と答えると「あなたの目は瞳孔が開いたままです」と、ビックリされた(サリンの話をして納得)。写真を撮り、診察は終わった。  最後に、車両に乗り災害にあわれ命を奪われた方々、また、救援活動で命を奪われた方々の御家族皆様、いまだに後遺症で苦しまれている方々の1日も早い回復をお祈り申し上げます。

「サリンの日」は常に国民に安全意識をもたらしましょう

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

地下鉄サリン事件犠牲者の13回忌を迎えました。早いものですね。  しかし今や国民の多くの人たちはこの事件を忘れかけてきたように感じられます。  あの日の朝は確か空がきれいに晴れわたった日だと思い出しました。あの日の朝、僕は朝早くから虎の門病院で診療してもらうために地下鉄銀座線・虎ノ門駅で下車しました。  いつもは地下鉄丸ノ内線・霞ヶ関駅での下車でしたが、たまたま病院へ行くためにいつもの下車駅を霞ヶ関駅から虎ノ門駅に変えていました。  病院での診療が終わり勤務先に向かう途中、サイレンがけたたましくなっているので何か朝から火事でもあったのかなと思いました。  官庁街を消防車が走りまわるとともに警察車や救急車も走りまわっているので、これは朝から大事故かと思いました。  すぐ勤務先に着こうと足早に歩いていると、虎ノ門駅周辺にいる警察官の爆発事故のようだという話し声が聞こえてきましたので、僕は火薬・爆薬が持ち込まれた爆発事故や事件かなと思い勤務先に飛び込みました。  僕は当時、通商産業省(現経済産業省)で火薬類保安行政を担当していました。そのため火薬類の取り扱い上での事故や事件ならば即対応しなければいけないと関係官庁の警察庁に問い合わせをして状況把握に努めていましたが、火薬類での事故や事件ではなさそうとの連絡を受けました。  その後、オウム真理教という一宗教団体がサリンという毒ガスを散布した無差別殺人事件であることが判明しました。このような事件が起きた時、わが国でも無差別なる殺人事件が起きるということを国民は認識したことでしょう。  いつでも起こるということをわれわれは常に認識しておかなければいけないし、警察や公安調査庁は常に国民の安全を護る責務があり、国民の安全管理活動を常にしていただきたい。  さらに国民は常にこのような事件が起きるということを知っておくことだと思います。  この事件で多くの方々が被害にあい、お亡くなりになった方々にはあらためて御冥福を祈るとともにいまだに後遺症で苦しんでいる方々が一日でも早く回復することをお祈りいたします。  国民はこの時には安全意識という危機管理に目覚めましたがすぐに忘れてしまいます。決して忘れてはいけない事件でした。  今、あらゆることで自己管理の時代と言われるが、国としては国民を守る安全対策についてあらためて国家危機管理体制を整備していただきたい。  現在、国民社会生活においての危機はいろいろなことが出始めている。いまや世界は国家間の戦争から一部の国際的なテロ集団組織が活動しだしている時代となってしまった。  このような時代の変わり方を理解している人があまりにも少ないし知らなすぎる。危険性大なる化学薬品(毒ガス等)が安易に使われだしているし、今やわが国でも外国人による殺人事件も発生する時代となってしまった。わが国の警察の治安力、検挙力が弱くなったように感じられてきました。  ここであらためて考え直す時がきています。行政とともに国民は自信を持って安心して生活ができる国に立て直そうではありませんか。

「恐怖」「憤り」「悲しみ」を共有した者として

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

当時、私の住まいは調布にあり、勤め先は大手町ビルにあった。  通勤途中、新宿駅に着くころに車内で3~4人の人が具合悪そうにしゃがみこんでしまい、「今日は、やけに体調の悪い人が多いな」とちょっと、不思議な感じを受けた(これは、サリンとは関係なく、偶然だと思っています)。新宿の京王線のホームから、普段だとJRの中央線に乗って東京駅まで行き、そこから歩いて会社に行くのだが、その日は時間に余裕があったので、丸の内線で座って楽をして行くことにした。大手町駅到着後、表にでた時、けたたましくサイレン鳴らしながら、消防車やパトカーが何台も走り去っていった。  私は「地下鉄で人身事故でもあったかな」とあまり気にも止めないで会社に向かった。  会社に着いて、一通りの準備が終わって事務所に戻った頃、「地下鉄で大事故が起きた」とみんなが大騒ぎしていた。社員の全員点呼が行われて、女性社員一人がまだ会社に来ていないことが分かった。「地下鉄で化学物質が撒かれて、多数の負傷者が出ている模様」の知らせもあり、会社内はかなり騒然としていた(後にその女性社員はタクシーで無事出社した)。  業務についていると街宣車が大音量で次の内容を流していた。「私たちは、XXの光です。今回の事件はオウム真理教が起こしたものです。私たちは、この行為を弾劾し・・・・・」  どこの報道番組もまだ犯人について何も報道していないのに、なぜ、この団体はオウム真理教とわかったのだろう。わたしは怪訝に思いながらも、あることを思い出した。  前の週のある日、残業を終えて、東京駅の丸の内北口の券売機のあたりで突然声をかけられた。  「あの~すいません。この辺にどこか安く泊まれるところありませんか」  丸坊主で背の小さいがりがりに痩せた若い男だった。どっかで見たことがある格好....「あっオウムの信者だ」と心の中で思いながら、時計を見ると22時20分頃であった。私は「この時間だとカプセルホテルしかないよ。その道を神田の方に歩いていくとあるよ」と教えてあげた。 「神田ってどこですか」と聞いてきたので、心の中で「神田も知らないのか...相当田舎者だな」とつぶやきながら、馬鹿正直に道順をていねいに説明してあげた。若者は「どうも、ありがとうございました」とふかぶかと頭を下げ、いつの間にか現れた2~3人の仲間のもとへ歩み寄っていった。全員、特大のリュックを背負っていた。    「もしかして、あいつらがやったのか」私は憤りと恐怖を感じて頭に血が上った。  昼頃には、化学物質がサリンのようだとの情報も出はじめて、周りの人間も「オウムだ。オウムだ。」と騒いでいた。私は、神田の駅まで用事があったので、昼食がてら徒歩で向かった。  電車の高架橋をぬけて、神田駅の入り口に入ろうとしたら、オウム信者の格好をした10数人が階段のところに座り込んでいた。「こいつらがやったのか?」と怒りがわき、思いっきりにらみつけたら、その中の一人がにらみ返してきて「彰晃。彰晃。彰晃よ~」と例の歌を吐きつけてきた。  午後になると、会社では、みな一様に「これから、どうしたら良いのだろう。安全に帰れるのだろうか」と、もう仕事に手が付かない状態であった。私は、みんなを落ち着かせるために科学兵器の対処マニュアルを作ることにした。偶然であるが私は、子供のころから、軍事的なことに興味があって自己研究をずっとやってきており、たまたま、サリンやマスタードガスなどの科学兵器対処術を本からではあるが知識として持ち合わせていた。  総務部にその科学兵器対処マニュアルを配布するように要請したが門前払いされてしまった。担当者に「犯人も捕まっていない状態で、追い討ちのゲリラ(この頃はまだテロという言葉は一般的でなかった)の危険性が高いから会社側で何か注意を喚起すべきだ」と要請したら「一般常識で対応して下さい」との回答、私は「サリンをまかれたときの一般常識とは何だ!」と大喧嘩をしてしまった。  結局、独断で勝手に配布した。総務には最低限のこととして、「女性社員はタクシーで帰宅させる」「帰宅後の安否確認をする」こと約束させた。  3月20日以降も、私は常に、不審な物が放置されていないか、挙動が変な人物がいないか観察するようにしていた。という私が、普段、スーツでリュックサックという姿で通勤していたので、よく警官に職務質問を受けるはめにもなっていた。  そして現在、――異臭さわぎなどがあると、すぐにあのころのことが鮮明に甦ります。事件について、今現在、調べさせていただきましたが、国家的大事件であるのに、犠牲者のご家族の方や負傷被害者本人及びそのご家族の方に対して、国がほとんど、手を差し伸べていない現状を知り非常に驚いています。  私自身は、直接的な被害は被りませんでしたが、あの時の「恐怖」「憤り」「悲しみ」 を共有した者として、改めてお見舞いを申し上げると共にこの手記を捧げさせていただきます。

人間愛はどこへいった!

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

私の故郷は津軽です。あなたの故郷はどこですか?兄妹は何人ですか?  私は8人兄妹の真ん中です。すぐ上の兄は魚市場長をしていて、鰤が大漁になるとトラックで一晩中走りつづけ、築地の市場まで運んできます。その時、ちょっとした食べ物やお茶など持ってきて私にくれるのです。大げさかもしれませんが、兄弟愛を感じながら築地の市場まで取りに行きます。ちょうどあの日の前日も、あの時刻に地下鉄に乗って築地駅に降り立ったのでした。もし、もし24時間遅れていたら間違いなく私も巻き込まれていました。テレビ報道を見ながら、もう身震いして止まりませんでした。なぜ! どうして!? 怒りと信じられない思いがこみあげて涙さえ出ました。  あの年、私は神戸の大震災の避難所をまわって子供の散髪をするボランティアをしていました。その時、たくさんの若者達がボランティアにきていて実に良く動いていました。ガレキの中から木材を運び、大ナベに豚汁を作ったり、パンを配ったり、年老いた人とコミュニケーションをする女子大生もたくさん見かけました。“ああ今の若い者は情けない”とかよく言うけれど、いやいや大したもんだ、日本の若者は大丈夫、大丈夫!!と感じ入って帰ったものでした。  しかし、そんな思いの直後にあのオウム真理教の上九一色村のいっせい捜索があり、麻原をはじめとする若者達がぞくぞくと連行されていきました。宗教という名のもとに、あの若者達は一体何をしたのでしょうか。同じ若者でも神戸で額に汗してボランティアをしていた若者達との落差というかエネルギーの使い方のギャップに、またまた信じられなくて、もう被害者の身になったら、本当にどんなにつらいことだろうと泣けてくる程くやしいのです。  私は今も時々築地に行きます。あのホームに立って、あの時駅員さんが必死に乗客に呼びかけていた“近づかないで 逃げて!!”と叫んでいたあの声が聞こえてきそうな気がするのです。思わず合掌します。こんな不合理な出来事は二度と起こらないよう・・・・・・と骨身にしみてそう思います。

出動連隊長としての地下鉄サリン事件覚え書き

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

事件発生の知らせを聞いたのはゴルフ場だった。以前の休日を訓練に充てていたため「統一代休」とし、異動する隊員の送別ゴルフコンペが開かれていたのだ。10時20分頃、ハーフを終えクラブハウスに戻ると舘島曹長宛の伝言メモが偶然、目に留まった。「連隊当直幹部から電話があり、大至急、連隊本部に連絡されたし」。  この時、私は「第六感」とも言うべきか、「何か重大なことが起こったのでは」と不思議な胸騒ぎを覚えた。当直幹部はあまり緊迫した様子も見せず、「都内で毒物がまかれたというニュースが流れています。陸幕が化学学校に対し『市ヶ谷駐屯地に除染のための資材を集めよ』という命令を出したそうです。市ヶ谷駐屯地に化学科部隊が集結するという情報もありますが、わが連隊には出動準備命令等は出ておりません」との答えである。  「これは異常事態だ。32連隊にも必ず任務が付与される。一刻も早く帰隊せねば」   そう考えた私はすぐに車を飛ばした。カーラジオから毒物がまかれている状況が流れてくる。ようやく連隊の臨時作戦室に飛び込んだのは午後1時19分。  作戦室では30人ほどのスタッフの耳目は、私の一挙手一投足に注意深く注がれていると肌で感じた。決して寡黙にならず、眉間にしわを寄せず、にこやかに振舞うことに努めた。司令部の雰囲気は極めて重要であり、その雰囲気により幸運の女神も引き寄せるし不幸の貧乏神も呼び寄せることを、それまでの人生体験で学んでいた。幸い、情報担当の第2科長富樫一尉は自宅のテレビで毒ガス散布のニュースを知るや直ちに登庁し、テレビからの情報を主体に被害発生状況を東京都の地図上に透明のビニールを被せた「状況図」に克明に記録していた。  私はその図を頭に叩き込んだうえで、「災害派遣命令書」を丹念に読んだ。  なぜ「治安出動命令」ではなく「災害派遣命令」なのか。これは台風、地震、洪水等の災害ではなく、地下鉄内に人為的に散布された毒ガスによる殺人(テロ)ではないのか。これが災害派遣とはおかしい・・・・・そんな思いが頭をよぎったが考えている暇はない。防衛大学に入学以来、今日まで国民の税金で養われてきたのは、国家的非常事態に対処し、国民の負託にこたえるためであり、今こそ、その時なのだ。  だが正直に言って、何にどう手をつけていいのかと戸惑ってもいた。何しろ、無差別テロと思われる事態下の化学物質を除去(除染)するオペレーションなど、自衛隊は一度も経験したことがなかった。しかも化学部隊(化学防護隊)という専門部隊が化学兵器(毒物)対処のため市中に出動すること自体が初めてで、普通科連隊長がこれに対する指揮を命ぜられるなど、まさに「青天の霹靂」だった。  第1師団司令部より「日比谷駅、霞ヶ関駅、築地駅、小伝馬町駅の計4箇所に派遣せよ」という指示を受け、約120名で中隊長クラスを隊長に4個の除染隊を編成した。化学科部隊は中隊サイズの第101化学防護隊を2個に分割し、小隊サイズの第1師団化学防護隊および第12師団化学防護隊と合わせ4個とし、各普通科の除染隊と組み合わせた。さらに各除染隊には化学学校から派遣されてきた幹部6名のうち4名を1名ずつスペシャルアドバイザーとして同行させた。  午後2時40分頃、営庭に整列したこれら4個隊を前に、私は訴えた。  「いよいよ32連隊が、国民に役立つ時が来た。ご承知の通り、地下鉄駅の要所において、毒ガス、サリンによると見られる事件が発生。われわれの任務としては、その除染に向かう」と切り出したあと、それぞれの除染隊の任務を示した。化学学校からの専門幹部を一人一人紹介し、彼らのアドバイスを聞くように徹底した。「相手は猛毒サリンである。むやみに軽々しく地下鉄の中には入らないように」 戦場で使われる有毒化学剤が散布されているのであれば、戦地に赴くのと同じである。私は縁あって部下となった隊員たちをこよなく愛していた。なんとしても、支援部隊はもとより、連隊から犠牲者を出したくはなかった。  いよいよ除染部隊の出陣だ。彼等はテキパキと行動し、パトカーに先導されて次々に出動して行った。しかしすべてが私の意図どおりではなかった。いったん作戦室に戻り、新たな状況を確認し、報告を聞き、さまざまな指示を矢継ぎ早にして再び外に出てみると、いまだ化学防護服を受領している除染隊が残っているではないか。 「一刻も早く現場に行けと言ったではないか。何をグズグズしている」と一喝した。  現場に迷彩服姿の隊員が到着すると、テレビは「待ってました」とばかりにこれを映し、作戦室でも一瞬どよめいた。それぞれの現場で先行部隊は現場を偵察し、サリンの散布場所を特定、除染のための段取りをし、苛性ソーダ液を攪拌し、化学部隊到着後直ちに除染作業に取りかかれる体制を作り上げた。化学学校からのアドバイザーが絶大な力になってくれた。  彼らは現場に到着すると駅員などから情報を把握すると共に、アドバイザーと少数の普通科隊員が地下鉄駅構内に入ってサリンの検知を行い、汚染地域を特定することができた。そして携行したバケツに水を入れ、除染剤の調合を準備し、化学科部隊到着後、効率良く除染できるように段取りができることとなった。築地駅地下鉄構内におけるサリンの除染作業を終え、臨時編成除染隊を指揮することになった近藤一尉が地上に戻ると、防護マスクを脱ぐ間もなく、また捜査員、消防隊員や営団地下鉄の駅員たちに囲まれた。  全員の関心は、サリンが完全に除染され、本当に安全なのか否かの一点であった。近藤は化学学校が所有しているCR警報機だけが空気中に浮遊する神経ガスを探知できることを知っていたが、残念ながらCR警報機は、昨日警視庁に貸与してしまっていた。取り囲んだ関係者の真剣な眼差しを前に、責任感の強い近藤は自ら「人体実験」をすることを決断し、東京消防隊員に万一の際、地下鉄構内から連れ出してくれるように依頼した。近藤はドレーゲル防護服を着た二人の消防隊員と共に地下鉄構内に下りて行った。ホームにたどり着いた近藤は、最初に防護マスクの首の部分にほんの少しだけ隙間を開け、一瞬のうちに閉じ、「人体実験」として自らの体にサリン特有の異変が起きないか問診してみた。最初の症状は瞳孔縮小を起こすので、「視野が暗くなった感じがしないか」目を瞬いてみた。ようやく地上に出た近藤が「もう大丈夫です」と叫んだ瞬間、歓声が上がり、大きな拍手が沸き起こった。  このように「最前線」においては、配属部隊も含めたわが部下達が、今まで一度もやったことのない地下鉄構内の除染活動をぶっつけ本番・命がけで行い、現場でさまざまな困難に出会っても、臨機応変に見事に克服してくれたのであった。  夜になって師団司令部より幹部が訪れ、「師団長から福山連隊長に直接お渡しするように命ぜられました」と申告し、一通の茶封書をうやうやしく私に手渡した。表書きに「別命あるまで開封を禁ず」と印刷されていた。私は自室に入り、人払いして、命令を無視して開封した。  案の定、封書の中には「作戦計画」が入っており、翌日警察がオウムのサティアンに踏み込んだ際、オウムがヘリコプターやミサイル、小銃などで反撃する可能性があり、その場合の自衛隊の支援要領や各連隊等の任務が細々と記されていた。今振り返ってみると、万万が一そうなっていた場合は、自衛隊初の治安出動、否、防衛出動の可能性があったことになる。  翌日、私は始発電車以降の様子をテレビでモニターしながら「異常のないこと」を祈った。除染の良否は翌日の始発電車からの乗客に異常がないことで判明する。午前6時、7時、8時と時間が過ぎていくが何の異常も報じられなかった。ようやくにして私は、わが連隊、隊員達が見事に任務を達成したことを実感したのである。  こうして「32連隊が市谷台上にある間に何か歴史に残るような足跡を残したい」という私の願いは、隊員たちの命がけの努力で現実のものとなった。

自分も事件を起こす側になり得たのではないか

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

私は、地方都市の会社に勤めています。  12年前の3月20日、会社のひとが持ち込んだ号外、それが地下鉄サリン事件との最初の出合いでした。 最初は、どんな馬鹿なひとたちがやったのだろうと思っていました。  しかし、事件の内容が明らかになるにつれ、真面目なひとたちが、教祖である麻原彰晃の言うことを疑うことは悪とし、善きことと信じて起こした救いのない事件だということがわかり、また、彼らの多くが自分と同世代であることを知り、事件について書かれた記事を集め、雑誌も買いあさりました。オウムについて分析した本や元信者の手記が出れば、買って読みました。それまで仕事でろくに休暇もとらなかったのに、それをとって裁判も傍聴に行きました。  私は、宗教は信じていませんが、信じていなかったひとも入って事件を起こしており、自分はたまたま地方にいて、オウムと出会わずにすんだのではないかと思いました。実際、自分は仏教を題材にした漫画に興味をもち、本屋で資料をさがしていたときに、有名ではなかった頃の麻原彰晃の本を手に取っており、しかし、買いませんでした。もし、あのとき、買っていたら・・・・・。オウムとかすったのだと思い、ひやりとしました。  インターネットで現信者と話しました。真面目なひとたちだから事件をオウムが起こしたことを知れば、きっとわかってくれると思いましたが、そんな生やさしいものではありませんでした。どう見えようが、まさしくオウムは宗教でした。それゆえ、麻原彰晃が彼らを解放してくれればよいのですが、そんなことはとても望めそうもありません。  また、オウムにしか行き場のないようなひとたちも入っていました。それに、戻って来たくても、まわりが受け入れないということもあります。  二度とこんな事件を起こさないために、対応が必要なはずですが、特別なひとたちが起こした特別な事件として、ほとんど対応が取られていないように感じます。  私には、これだけひどい事件なのに、事件を起こした側に思い入れがあるという罪悪感がずっとあります。被害者の方に申し訳ないと思いますが、彼らに自分と近いものを感じ、自分が事件を起こす側になり得たのではないかという思いがして仕方がないのです。  被害者の方についてですが、直接、被害を与えたのはオウムですが、そのために仕事ができなくなってしまった人々に対して、周囲が温かい対応をしたかというと、必ずしもそうではなかったようで、一般のひとによる二重の被害を受けることになってしまったのではないかと感じます。世の中に余裕がないのだなと。  今、12年が過ぎて、人々の記憶からこの事件が消えつつあるのではないかという感じがします。私にしても、年齢が上がるにつれ、仕事が忙しくなり、自分にも余裕がなくなり、この事件からだいぶ距離ができてしまいました。しかし、自分がもしこの事件を忘れたとき、自分はひととして駄目になったときなのだと思っています。

本の役割

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

事件から三年目に刊行された『それでも生きていく――地下鉄サリン事件被害者の会手記集』(サンマーク出版刊)の取材・編集を務めたとき、心の中にずっと、一冊の本があった。『わたしがちいさかったときに』(長田 新編・童心社)である。  当然ながら、わたしは戦争も原爆も知らない。だが、その酷さ、痛み、やりきれなさを感じとる心を育んでくれたのは、子ども時代に繰り返し読んだ、被災児童の作文をまとめたこの本だったのだ。 テレビが、新聞が、雑誌が、さまざまな角度で事件を報じるなか、長く読まれる性質をもつ本の役割とは、後世まで被害者の声を残すことではないか。  こうして、事件とのかかわりが始まった。  ずっと編集者をやっていれば、初対面の人と如才なく話したり、愛想笑いをしたり、話をうまく聞きだしたりという、多少の“技術”いうものは、自然と身についている。だが、そんな技術など、およそ役に立たないことは、取材をはじめてすぐにわかった。  人の心をこじあけ、家族を亡くした痛みを、突然死の危険にさらされた傷を、吐露してもらう重さの前で、涙をこらえて相槌を打つことしかできない日もあった。わたしはやがて、編集者としてではなく、素の自分のままでしか、この事件と対峙することはできないのだと気がついた。  12年目を迎え、今回、別のかたちの手記もまた、編集できることになった。  かつて取材した医療チームや弁護士の方が奇しくもおっしゃっていた、「この事件にふれた人間は、一生かかわっていくのです」という言葉が、よみがえってくる。どんな人にも起こりうる不幸を、遠い他人事として忘れてしまわないために、わたしは今後も、この事件とかかわり続けるのだと思う。

真相究明は、まだこれから

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

1995年3月20日、当時荒川区南千住にすんでいた私達夫婦は、地下鉄日比谷線を使い、茅場町駅で乗り換えて東西線の竹橋駅近くにある自営の司法書士事務所に出勤していた。  年子の2人の子どもは、月齢の関係で同じ保育園に入れなかった。いつもは私が2人を送っていくのだが、その日は荷物も多かった上、ゴミ出しに手間取り、いつもより少し出発が遅れていた。それで上の子を夫が、下の子を私が、それぞれ別の保育園に送って行くことになった。  登園すると廊下で体温を測ってノートに記入する決まりになっていた。体温計は大勢がいっぺんに登園してくると数が足りず、他の赤ちゃんが測り終えるのを待たなくてはならない。  ようやく出発しようとしたら、後から来たお母さんが開口一番「なんだか電車が動いていないみたいよ。築地かどこかで爆発事故があったんだって」と言った。彼女はちょうど駅前を通って保育園に来たばかりだった。母親たちはいっせいにそわそわした。もう8時を過ぎている。日比谷線がダメならどうやって会社に行こう。  日比谷線の南千住駅に着くと駅員さんが入口のシャッターを閉めるところだった。「詳しいことはわかりませんが、復旧の見込みはたっていません」と、駅員さんも困っているようだった。  南千住は他にJR常磐線の駅もある。しかしそこはものすごい数の人であふれかえっていてなかなか電車には乗れそうもなかった。仕方なくまた駅の反対側にもどってバスを待つことにした。  そのころ夫も足止めされていた。一度は乗車した電話から降ろされ、JRに振り替えするように言われたらしい。  私が乗った、混雑したバスはなかなか進まなかった。  どうやって事務所にたどり着いたか覚えていない。とにかく事務所に出勤したのは9時半をとっくに過ぎていた。遅れてしまったのは私達だけではなかった。一緒にフロアをシェアしている別の事務所の所員もみんな普通ではなかった出勤ルートの話をしていた。そうこうしているうちに、鹿角市から、青森市から、飯田市から電話がかかってきた。報道を見て心配した所員の故郷の親たちからだった。  うちの事務所は竹橋にある。事件よりしばらく前に、毎日新聞社ビルの前で白いサテンの服を着て、象の形の帽子をかぶった集団がよくビラをまいていた。サンデー毎日を糾弾するような内容のビラだったが、あれが「オウム真理教」ではなかったか?でもどうして宗教団体の信者が?と疑問がわいた。  その後の報道でたくさんの方が亡くなったことを知った。毎日横を通って毎日見ている小伝馬町駅のホームの柱がテレビに映った時、急に恐怖が襲ってきた。  茅場町駅で日比谷線から東西線に乗り換えるためにいつも後ろのほうに乗っていたが、それぞれの駅のホームの景色が、タイルの色が、柱の形が、リアリティをもってぐんと胸に迫ってきた。  あのときもし、ゴミ出しに手間取らず、2人とも私が保育園に送り届けて夫だけ早く出勤していたら?・・・本当に10分か15分の違いでたまたま難を逃れただけだったのだ。  少したって当時警察庁長官だった國松孝次さんがご自宅近くで狙撃された、というニュースが飛び込んできた。長官のお宅もわが家からそう遠くなかった。  狙撃の翌日から今度は自宅にビラがまかれるようになった。近くのマンション全部に配っているらしかった。狙撃は国家権力のでっちあげうんぬん・・・。  わが家は、今は南千住から引っ越しをし、事務所も移転したので日比谷線を使う機会もめっきり減ってしまった。小さかった子どもたちも中学生になった。  サリン事件は子供たちの成長の思い出とともにある、忘れられない事件である。  地下鉄サリン事件被害者の会の出された本も、江川紹子さんの本も、林郁夫受刑者の本も、事件に関する本は何冊も買って読んできた。しかしどうしてたくさんの方が命を落としたり後遺症に苦しんだりしなくてはならなかったのか、本当のところはまだわからない。  事件の真相究明も、被害者救済もまだまだこれから、という気がしてならない。

阪神淡路大震災体験者として

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

当時私は宝塚市に住んでおり、1月17日の阪神淡路大震災で家が半壊し、伯父を失っていた。しかし幸い家は修理すれば住めそうで、2カ月近く止まっていたガスもようやく通じた頃だった。たまたま学校が休みで、小学校の息子を連れて大阪の博物館に行く途中、立ち寄った店のテレビでこのニュースを見たように記憶している。  大勢の人が倒れており、救急車のサイレンが鳴り続けているのを聞いていると、震災の悪夢がよみがえるようで、平静ではいられなかった。後で家に帰って新聞を読み、これが天災ではなく、人為的なものだと知った時の驚きと理不尽な思いは、今も忘れられない。  震災では多くの人が命を失ったし、それ以上に多くの人が辛く悲しい思いをしてきた。もちろん人災の部分も否定できないが、基本的にこれは天災である。危機管理を含めたその後の対応には、多くの問題点があったけれど、地震そのものを防ぐことはできなかったとの思いが、われわれに諦めの気持ちを与えていた。  しかしこの地下鉄サリン事件は、人間がしかけたことだと言う。一体何のために?必死で防ごうとしたって防ぎきれない災難が、この世にいくつも存在するのに。人間の手で災難を増やす必要がどこにあるのか?  全く理解できないできごとであった。そして事件現場と何百キロと離れていたにもかかわらず、忘れられない事件であった。私にとって地下鉄サリン事件は、阪神淡路大震災と切り離すことのできないできごとなのだ。  その後の経緯については、語り尽くされているけれど、日本の裁判制度があまりにも加害者の権利を擁護することに、歯がゆい思いをしている。被害者の人権を踏みにじった加害者の権利を擁護することに。  おそらく戦前は加害者(を含めた一般の人間)に人権などないも同然だったろう。その前に人権などという概念が存在していたかすら、あやしいものだ。その反動で戦後すぐにできた法律には、しっかりと加害者の人権が保障されるようになったのだろう。しかし今、少年法を初めとして、刑法が見直される動きがあるようだ。この事件でも被害者や家族の方々は、ずいぶん人権を踏みにじられたことと思う。  一日も早く、当然すぎると言える被害者側の権利を守る社会を、協力して創ってゆくことを願ってやなまい。

一人一人が考え方を変えれば・・・

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

私がまだ2歳の頃に地下鉄サリン事件がありました。  小さかった私は事件の事は何も覚えていません。元気な叔母ももちろん知りません。  「元気だった叔母を返して欲しい」すごくオウムを恨みました。  オウムが何がしたかったのか私にはわかりません。わかりたくもありません。  「なぜ人を傷つけ平然としていられるの?」  「どれだけの人に傷を負わせたかわかってる?」  私がオウムに一生懸命に言ったとしてもきっと伝わらないと思います。そんな人に叔母の未来を奪われたと思うと憎くてしかたありません。これからも叔母や父が大きな傷を負いながら生きていきます。そんな未来はいりません。明るい未来を返してください。  でもオウムを恨んでも元気だった叔母はかえってきてはくれません。小さい頃に起きたことなので何もわかりませんが、わかることが一つだけあります。それは、人を傷つけることに何も意味がないこと。だから私はもぉ「人が人を傷つける」そんなことがない平和を望むばかりです。だけど人は人を傷つけてしまう生き物だからどーしようもないかもしれません。  でも、一人一人が考え方を変えれば傷つく人が減ると思います。いまさらって思わないで皆が笑っていられる、傷つく人が減っていくそんな世の中になってもらいたいです。

元出家信者から見た地下鉄サリン事件

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

私は元出家信者です。地下鉄サリン事件のかなり前にオウム施設から脱走し、脱会しました。脱会後、オウム真理教被害対策弁護団の弁護士さんに助けていただきながら、警察の捜査に協力していました。1月下旬にはたくさんの調書や上申書の作成も終わり、私は警察がいつ強制捜査に入ってくれるのかと一日千秋の思いで待っていました。そして3月20日の朝に地下鉄サリン事件が起きました。テレビで事件の一報が流れた瞬間、オウムだと思いました。被害にあわれた方々の姿が次々とテレビの画面に映し出されました。私はたまらなくなり姉に電話をかけました。姉は私に「あんたはこんなことをした教団にいたんだよ!あんたはこの罪を一生背負って生きていかなければならないんだよ!」と言いました。この言葉は私の胸に深く刻み込まれました。  私は松本智津夫の裁判の傍聴に行き、高橋シズヱさんとすれ違いました。私は体が震えてきて、手に持っていた傍聴券を落としたことにも気が付かないほどでした。少しして、後ろから「落としましたよ」と高橋さんが傍聴券を手渡してくれました。私は「ありがとうございます」それしか言葉が出ません。心の中では「すみません。すみません。あなたの大切なご主人の命を奪ってしまいました。すみません。すみません」と叫んでいました。  被害にあわれた方々を思うと、この手記を書いていて、申し訳ない気持ちで一杯になり、涙が止まりません。私以上に涙が止まらないのは被害にあわれた方々だと思います。被害にあわれた方々の辛さは私の思う以上の辛さだと思います。  今の私にできることは、教団が完全にこの世からなくなるように協力すること、自分の罪を忘れずに生きていくこと、オウムだけではなくカルトによる悲惨な事件が起こらないように私の過ちを伝えていくことだと考えています。

カナリアの墓

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

地下鉄サリン事件が起きた日、わたしは島根県松江市にある支局の2年生記者だった。  オウム事件とのもっと明確な関わりは、オウム真理教の教団施設があった山梨県上九一色村に応援記者として派遣されてからだ。1993年5月1日から、松本智津夫死刑囚が逮捕されるまで、さまざまなサティアンの前で張り込み、警察の動きを待ち続けた。  ある日「村のどこかにカナリアの墓があるらしい」という噂が流れた。強制捜査の際に警察が持って行ったことで有名になったカナリアだ。サティアン前の警察官にそれとなく尋ねるのだが、何でも騒ぐことが面白いのか、はぐらかす答えしかしてくれない。噂は次第に消えていった。  その次には、松本死刑囚が逮捕されたことで後に有名になった第6サティアンに住み着いていた犬に「ホーリーネームがあるらしい」と話題になった。ある捜査員は「俺は知っている」と断言したが、教えてくれなかった。毛むくじゃらの、いつも泥まみれの犬で、普段ろくな物を食べてない信者たちが、いったいどんな餌を与えているのかわからなかったが、それでもいつも、楽しそうにうろうろ歩き回っていた。その犬を見かけなくなったころ、松本死刑囚は逮捕された。  松本死刑囚が逮捕された日。立ちこめる霧の中で護送車を見送りながら「裁判は大変なんだろうな」と思った。まさかその9年後、一審判決の記事を自分が書くとは思いもしなかった。多くの犠牲者を出した、許せない事件であることは間違いない。その後、多くの被害者や遺族、捜査関係者と知り合い、話をうかがう中で、その思いを日々、強める。しかし一方では、そうした取材でのさまざまな出合いが今のわたしを支えてくれていることも、間違いないことなのである。

死刑だけが解決策なのか

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

決して起こってはいけない事件が起きたと感じ、自分なりに理解し記憶しなければいけないとの思いは強くありました。それまでにも地元横浜の坂本弁護士事件について、講演会、シンポジウムや集会等に参加し、事件の奇妙さと警察の捜査の進捗について非常なもどかしさをいつも感じていたからです。地下鉄サリン事件は、決して容易に理解したり、わかったつもりになってはいけない事件だと思いました。  事件から2年後、地下鉄サリン事件被害者の小冊子ができたとの新聞記事を見て、1冊分けてもらいたいと電話すると代表世話人の高橋シズヱ様の声でした。  当時、勤務先の事務所が日比谷公園の近くにあったせいで、妻には冷やかされましたが、東京地裁の裁判傍聴に何度か並び、3回目に抽選に当たったので1998年4月24日午前、某エセ宗教団体の“狂素”の顔を3、4mの距離から見ました。だらだら長引く裁判の様子を新聞で見、検察側、弁護士側、共に不満に思っておりました。当時の上九一色村の村長宛に代表的な施設のごく一部を負の遺産として保存してほしいとの手紙を1999年頃出したことがあります。そうした動きは大きな流れとして全く具体的結果に結びつきませんでした。村民にとっては忌まわしい記憶であるにちがいないのですが、日本全体から見て、記憶し伝える努力の一歩になれば良いがと非常に残念に思ったものでした。  2004年2月27日早朝、“狂素”の最終判決の日に抽選のため、日比谷公園に並びました。4658人のうち、20名位の人が入場できたようです。私は落選しました。事件に関係した加害者の裁判で多くの“狂団”幹部に死刑判決が出されました。中には、自身の罪を認めず、被害者へ謝罪の言葉もなく、いまだに“狂素”への帰依をしているかに見える幹部が存在します。  私は、こうした犯罪者がなぜ生まれるか検証できない間は、加害者を死刑に処すことなく、重大犯罪者博物館的な施設を設けて、―――当然、本人に奉仕の意志を確認する必要はありますが、―――処刑の日まで、しばらく余生の一部を心理学者、刑法学者、犯罪学者等の調査・研究への協力者として、また、特別な日に一般国民への見学等に供し得る選択肢を検討してもらえないかと提案するものです。なぜなら、刑罰を科すにしろ、反省もない犯罪者を死刑の形でこの世から抹殺するだけが、解決策だとは思えないからです。  もう少し犯罪学の面から調査・研究する要素がありはしないかと危惧するものです。

皆様と己のこれからの人生を応援したい

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

3月20日は私の入院日当日でした。文京区の日本医科大学付属病院へ行くには、千代田線根津駅か千駄木駅降車のどちらがいいかと考えつつ、なんとなくテレビのスイッチをひねったとき、あの衝撃的なニュースが全身に飛び込んできたのです。10年にわたる海外駐在を終えた直後、胃ガンと診断。日医大の推挙を受けました。この時年齢50歳、事故には遭遇することはあっても、大病を患ったことはなく、なんで自分が胃ガンに。全く寝耳に水、大ショックと同時に忸怩たる思いがつのってきました。入院までに気持ちの整理はある程度はつき「負けるものか、絶対打ち勝ってやる」という方向に変化してきていました。午後入院でもあったので、テレビに釘付けになっていると、事態はどんどん悪いほうに展開していきます。人の命を何と思っているんだ!怒りと悲しみが交錯し、止め処なく涙が溢れ出し、嗚咽にむせんだことを忘れません。  午前入院であった場合、自分がその電車に乗りあわせた可能性も十分あった訳です。それから10日間、検査が続き、3月30日に手術。なんとこの日に國松孝次警察庁長官(当時)が狙撃され、日医大救急病棟に担ぎ込まれたのです。私は4Fの2人部屋への入院でしたが、後で知ることになるのですが、同じ4Fの特別室に國松元長官が後日シフトされました。入院中、ずっとフロアに私服警察官のガードがつきっきりでした。4月24日の小生退院後も入院されていたはずです。地下鉄サリン事件においてご不幸に遭遇された方、関係された方にはお悔やみと、慰めと、そして励ましの言葉をおかけすることしかすべを見出せません。このような形でサリン事件に関わった者がいたことと、それを知ってもらうこと、生命の尊さを訴える意味において、皆様と己へのこれからの人生への応援と鼓舞を込め、案内させていただきます。

東京の教訓は世界で生きています

『私にとっての地下鉄サリン事件~事件発生12年を迎えて』(2007年3月刊)より

東京の地下鉄でサリンがまかれたとき、わたしは目黒区の救急病院で内科の研修医として働いていました。救命救急センターに集まったわたしたちに「都心の地下鉄の駅で何かよくわからない化学物質が充満して、具合の悪くなった人たちがたくさんいるらしい。救急車が現場から医療機関に被害者を搬送している。うちの病院も、これからできる限り受け入れる」と責任者の先生が説明し、間もなく次々と救急車が到着しはじめました。  重症の被害者は最寄りの聖路加国際病院や虎ノ門病院などへ搬送されたため、現場から10キロほど離れているわたしの病院へは比較的軽症の方々が運び込まれました。救急車から次々に降ろされる方に名前をうかがい、簡易カルテを用意するところから仕事は始まりました。  私が対応した方々は意識も呼吸も問題なく、雑談もできる程度にはお元気だったのですが、診察をしてみると、その瞳孔はいずれもとても小さく縮んでいました。わたしたちにできたことは、ともかく、体調の変化を見逃さず、重篤な症状の方に対してすぐに対症療法を始められるよう、経過を観察することでした。幸いなことに、わたしが働いていた病院に搬送された方で亡くなった方はいらっしゃいませんでした。   原因がわからない症状を持った人が、今後何人搬送されてくるのかもわかりません。先に運ばれてきた人よりも重症の人が後からやってくることもある中で優先順位をつけながら、「本人」と「そのお名前」と「その方の医療記録」をいつも一緒にしてわかりやすくしておかなければ、今自分が診ている方が誰なのか、どんな治療をすべき人なのかが把握できなくなります。入院している人はこの事件とは関係なく700人くらいいて、その中には緊急の対応を必要とする患者さんも多い――。このような状況は、一言で言えば「大混乱」です。わたしたちは、ともかく、上司と相談しながら自分のやるべきことを見つけて、できることはみんなやってみました。  わたしにとっての地下鉄サリン事件は「突然病院に搬送されてきたたくさんの人々に対して医療従事者がやるべきことは何なのかということを、体を動かしながら考えた日」となりました。  研修医生活を終えて数年たち、わたしは米国のコーネル大学の病院で働くことになりました。  いつものように患者さんの回診をしていたある日、世界貿易センターで事故があって負傷者がでているらしい、との報道がありました。その時はまだ事情がわかっておらず、マンハッタン島でよく見かける小さな遊覧飛行機が、風にあおられてビルにぶつかったのではないか、とのんきに考えて「危ないねえ」などと患者さんと軽口をたたきながら診察を続けていました。  しかし、ご存知のように、そうではありませんでした。これは5年以上たった今でも尾をひく、多くの国々を巻き込んだ紛争の端緒となった2001年9月11日のテロの始まりでした。  信じられない出来事を目にして、わたしたちは呆然としていました。病院で働いているわたしたちにわかっていたことはただひとつ、「この2機の飛行機のビルへの衝突で、世界貿易センタービルの中にはけが人がたくさん出て、彼らは治療を必要としている」ということだけでした。  その後の病院の対応は驚くほど迅速でした。まず、現場で働く医師たちに、「受け持ち患者を、①今すぐ退院できる人、②近隣の小さな病院へ転院できる人、③病気が重くて帰せない人、④帰せないけれど、重症用のベッドでなくても大丈夫な人、に分類してただちに提出するように」と知らせが届きました。これからたくさんの負傷者が運ばれてくるので、その方々がすぐに入院できるようにたくさんのベッドを確保することから大規模災害への病院の対応が始まったのです。  当日行われるはずだった手術も、外来も、みんなキャンセルです。すべての手術室はこの事故に巻き込まれた人びとのために待機しました。献血を呼びかける張り紙が病院中に張り出され、救急外来には、たくさんの医師や看護スタッフが集まり点滴などの準備を始めました。  これらの準備は1機目の飛行機がビルに突っ込んでから2時間くらいの間にすべて整いました。  一息ついて救急部で働く友人に「東京でサリンがまかれたとき、わたしたちは自分たちで思いつく限りのことはやったんだけれど、混乱することがあったの。でも、今日はまるでこれが起こることを知っていたみたいな手際の良さで準備が進んで、とても驚いた」と話しました。  彼の返事は、とても印象的でした。「いや、そうじゃないんだ。米国も大規模災害、とくにテロに対する対応は数年前までほとんどできていなかった。今日のこの対応は東京でカルト集団が地下鉄にガスをまいた、あの事件で学んだことから生まれたマニュアルに従って動いているんだよ。東京のテロは本当に不幸な出来事だったけれど、その経験が今日、役に立っているんだ」  わたしは偶然、大きな無差別テロの被害にあった方々へ医療を提供する場に、東京とニューヨークで居合わせました。そして、東京での教訓が国を越えて、多くの人々のために具体的に生かされていることを、身をもって体験しました。  地下鉄サリン事件から12年がたった今でも、被害にあった方々やご遺族はさまざまな辛いお気持ちをお持ちになっていらっしゃることと思います。被害にあった方々とじかに接する機会があった者として、そして、その時の教訓が別の機会に立派に生かされていることを知った者として、ぜひこのことをお伝えしたいと思いました。東京の教訓は、世界で生きています。
「その朝」の総理官邸
不条理な犯罪の時代
事件にあう、あわないは自分で選べない
犠牲者や遺族の無念さははかり知れない
看護師としてできること
生かされている自分を感じた
母親として子供に伝えたいこと
トンボの群れのようなヘリコプター
終業式の日の出来事
ロンドンより
身近に感じる未曾有の大惨事
たまたま「その日」は乗らなかっただけ
東京都知事選とサリン事件
他人事ではない
海外調査チームとともに
自分にできることから始めたい
日本人としての心の支援を
フランスより
あの日あのとき・・・そして今思う
あの朝、10分、15分早く家を出ていたら
通勤途中の小伝馬町にて
「サリンの日」は常に国民に安全意識を...
「恐怖」「憤り」「悲しみ」を共有した者として
人間愛はどこへいった!
出動連隊長としての地下鉄サリン事件覚え書き
自分も事件を起こす側になり得たのではないか
本の役割
真相究明は、まだこれから
阪神淡路大震災体験者として
一人一人が考え方を変えれば・・・
元出家信者から見た地下鉄サリン事件
カナリアの墓
死刑だけが解決策なのか
皆さまと己のこれからの人生を応援したい
東京の教訓は世界で生きています

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